桂文枝を襲名した理由とは?立川談志に反対され桂三枝を捨ててまで!
桂文枝(三枝)が六代目桂文枝を襲名
桂文枝は、68歳の誕生日を迎えた四年前、上方落語協会会長の桂三枝(当時)として、六代目桂文枝の襲名発表会見を都内で行いました。「平成の文枝を作り上げ、上方落語と、所属する吉本興業に恩返しをしたい」と、文枝一門の定門「結び柏」の紋付はかま姿で登場し、皆に深々と礼をした六代目桂文枝。
69歳になる年に正式に襲名しましたが、バラエティ番組においては、全て以前の「桂三枝」の名前で出演しています。中でもテレビ朝日系の長寿人気番組『新婚さんいらっしゃい』では、夫婦間の面白エピソードに、桂三枝が椅子から転げ落ちるリアクションが定番になっていますが、「上方落語の大名跡『桂文枝』の名を語ってこけるわけにはいかない」という、本人なりの苦肉の策だったようです。これまで生み出した220以上もの創作落語に関しても「これからも桂三枝の名前で作っていく」との意思発表をしました。
桂文枝が立川談志に反対され、桂三枝を捨ててまで六代目を襲名した理由とは?
桂文枝の先代の五代目は、後継者については何も遺さず2005年に亡くなり、実のところ六代目桂文枝自身も「三枝」に愛着があって、襲名するかどうかずっと悩み続けていました。そして、悩みに悩んだ末に、桂文枝が相談を持ちかけたのが立川談志。当時体調を崩して入院中だった立川談志の元に面会に行くと、一言「止めとけ!」。桂三枝をここまで大きくしたのだから、このまま続けろと猛反対されたそうです。
「分かりました。そうします」と答えたものの「直系が継いできた文枝を、他の一門に継がれたら、師匠に申し訳が立たない」との思いが、桂文枝の心を大きく動かします。結果「桂文枝襲名」の発表を聞いた立川談志は「人生成り行き。三枝よりも文枝のほうが良くなったのか。じゃあ仕方がない。勝手にしろ。三枝のばかやろうへ!」と、型破りな談志ならではの激励のファックスを桂文枝の元に送りました。
桂文枝の妻、高橋真由美や子供たちは?桂文枝一門の凄さとは?
桂文枝や妻である高橋真由美ってどんな人?子供はいるの?
桂文枝の本名は河村静也。1943年7月16日、大阪府堺市に生まれた子供の頃から、演劇や絵画に興味を持ち、コーラス部に入部するなど、人前で何かを表現することが大好きな少年でした。関西大学在学中に当時、関西の大学では珍しかった落研部を創設。23歳の時に、桂小文枝門下となり、三枝と名付けられます。その後は、本業の落語だけでなく、ラジオやテレビでレギュラーを持ち、今までにない新しいタイプの落語家として、不動の地位を築いた桂文枝。
1971年に『ヒットヒットでパチョンといこう』で共演したタレントの高橋真由美と婚約し、1972年に池田市のカソリック協会で式を挙げました。桂文枝はプライベートに関してはあまり公表していませんが、妻・高橋真由美との間に二人の子供(息子と娘)がおり、息子は、芸能事務所の社員をしているそうですが、娘は芸能界とは関係ないようです。
桂文枝(三枝)が襲名した桂文枝一門の凄さとは!
桂という名でさかのぼると、全て初代の文枝にたどり着くほど、桂文枝一門は大名跡。落語の世界は、歌舞伎のような古典芸能と同様、師弟関係の世襲制度において何代に渡って由緒ある名前が受け継がれてきました。桂一門の始祖は、江戸時代の寛政から文化年間に大活躍し、落語を現代の寄席形式にした最初の人物と言われる初代桂文治です。文枝一門に関していうと、六代目桂文枝の師匠である五代目桂文枝は「上方落語の四天王」と一人と呼ばれたレジェンド。弟子、孫弟子、曾孫弟子を合わせると、桂文枝一門の師弟関係は、何と40名以上という大所帯となります。
2012年に、桂三枝(当時)が六代目桂文枝を襲名しましたが、大名跡「桂文枝」という重責に悩み、誰にも相談できずに悶々とした日々を送ったそうです。その中でたった一人相談した立川談志にも猛反対されましたが、「ここまで繋いできた桂流の源流を五代目で終わらせてはならない」と襲名を決意。「今は何の迷いもなく、一点の曇りもない」と襲名披露で語った六代目桂文枝には、五代目夫人から「がんばりや」とメールが送られました。
桂文枝が選択した苦渋の決断「桂文枝」と「桂三枝」の二足のわらじ
桂三枝(当時)は、落語家としてデビュー後、ラジオやテレビのレギュラー番組を数多く持ち、お茶の間の人気者として大ブレイクしました。その傍らで、本業の落語への情熱はさらに熱く燃え上がり、「グループ・落語現在派」を立ち上げます。桂三枝の創作落語は高い評価を受け、『ゴルフ夜明け前』は1983年に文化庁芸術大賞を受賞し、1987年には渡瀬恒彦主演で映画化。さらに、還暦を迎えた年、第六代上方落語協会会長に就任し、長年の悲願だった上方落語専門の寄席「天満天神繁昌亭」を開店させました。
そんな落語界の重鎮と称された桂三枝でさえ、六代目桂文枝襲名には相当の覚悟と苦悩と葛藤とがあったようです。悩みに悩んだ末、三枝が下した決断は「六代目襲名」と「桂三枝」という二足のわらじの選択でした。「上方落語の四天王」と謳われた五代目師匠の名に恥じぬよう一層落語に精進する心構えと、師匠である五代目の願いでもあった「桂三枝」の名をさらに大きく広めること。
そのため、バラエティなど落語以外の仕事に関しては「桂文枝」ではなく「桂三枝」の名前で出演し、創作落語に関しても「桂三枝」の名前を使うという意志表明です。思えば始祖である初代桂文治も、当時、新作落語を数多く手がけた大家。片や220以上もの創作落語を作り、その多くを弟子たちが今以て高座にかけるという六代目桂文枝。大名跡に決してひけをとらない活躍ぶりと感じるのは私だけではないはずです。