宮沢賢治が「雨ニモマケズ」を遺したワケ!詩の意味・解釈

宮沢賢治が「雨ニモマケズ」を遺したワケ!詩の意味・解釈

宮沢賢治の遺作「雨ニモマケズ」のモデルと言われる人物とは?

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、国語の教科書にも掲載されており、日本人ならば、誰もが一度や二度は目にしたことのある作品です。宮澤賢治が肺結核で倒れた後に手帳に書き遺したものですが、この詩には、モデルとなる人物が存在したと言われています。

その人物とは「斎藤宗次郎」。宮沢賢治の生まれ故郷である岩手県花巻市で初めてのクリスチャンであり、宮沢賢治とは、農学校を通じて交流がありました。クリスチャンは、「国賊」として迫害を受けていたこの時代。洗礼を受けた斉藤宗次郎もまた、教職の道を奪われ、親からも勘当された身でした。それでも斉藤宗次郎は新聞配達で生活を立て、配達する家一軒一軒に祝福の祈りを捧げ続けたと言います。

岩手の厳しい冬の最中、朝の新聞配達時に雪が降ると、小学校の前の雪かきをして道を作り、小さい子供を抱き上げて学校へと送り届けたという斉藤宗次郎。子供たちに飴を配り、新聞配達が終わると、病気や貧困の人々を見舞って励まし、悩みを聞いていたそうです。

宮沢賢治「雨ニモマケズ」の意味と解釈、遺した理由とは?

宮沢賢治は、雨の日も風の日も雪の日も、休むことなく花巻の人々のために働き続けた斉藤宗次郎の姿に心打たれたのでしょう。その後上京した斉藤宗次郎に届いた花巻からの初めての手紙は、宮沢賢治からのものでした。幼い頃から法華経に親しみ、生涯を通じて信者だった宮沢賢治ですが、斉藤宗次郎を尊敬し、教会にも通っていました。

斉藤賢治の代表作「雨ニモマケズ」の中にある、自分を差し置いて他人を思いやる生き方は、宮沢賢治を語る上で必ず出てくる「自己犠牲の精神」であり、斉藤宗次郎の生き方とも相通じます。たとえ皆にデクノボーと呼ばれながらも、自分よりも他人を思いやり、見返りを期待しない「ソウイウモノニワタシハナリタイ」生き方は、賢治が生涯を賭けて遺したかった「理想郷」だったのかも知れません。

宮沢賢治「やまなし」のクラムボンって何?作品年表まとめ

宮沢賢治の代表作「やまなし」のクラムボンの正体とは何?

宮沢賢治著「やまなし」は、小学6年生の教科書(光村図書)に数十年以上にわたって掲載されている作品です。タイトルもさることながら、何とも不可思議な物語で、指導する教諭側からすると、「『やまなし』の授業をきちんとできたら教師として一人前」と評価されるのだとか。

「やまなし」の主な登場人物は、「蟹の兄弟」ということになるのでしょうが、中でも特異すべきは、「クラムボン」の存在です。物語を読んだ子供たちの疑問点も「クラムボンって何?」が一番多く、この「クラムボン」の正体についての意見交換が授業の「核」になるようです。「クラムボンは死んだよ……クラムボンは殺されてしまったよ」、この記述からは、どうやら「クラムボン」は生き物という気がします。

言葉の響きから考えてみると「プランクトン」にも似ているようですが、「クラブ(蟹)」との造成語なのでしょうか?「イーハートーヴ」や「イギリス海岸」など、宮沢賢治は、ネーム遊びの巧みな作家でした。宮沢賢治が生み出したイマジネーション豊かな世界に触れたとき、「クラムボンって何?」という疑問についてはあえて答えを求めない……そんな鑑賞法も許される気がします。

宮沢賢治の年表まとめと主な代表作品とは?

宮沢賢治は、詩人・童話作家です。1896年に、岩手県花巻市に生まれ、幼い頃から昆虫採集や鉱物採集に親しみ、花巻川口尋常小学校3・4年の担任の影響を受けて童話に興味を抱きました。岩手県立盛岡中学校を経て、1915年に、盛岡高等農林学校に首席で入学。同人誌「アザリア」を刊行して、短歌や短編集などの文芸活動に勤しみました。1921年に、花巻農学校の教師として働き始めますが、30歳の時に教職を辞し、いよいよ文学と農学指導の道を歩みます。

1928年、過労から肺を患った宮沢賢治は、いったんは回復しますが、1931年に再び病に倒れ、2年後の1933年9月21日に肺炎で死去。「どんぐりと山猫」「風の又三郎」「よだかの星」「銀河鉄道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」など代表作品の多い宮沢賢治ですが、実は生前は無名の作家でした。宮沢賢治の生前に唯一刊行されたのは、詩集「春と修羅」と、童話集「注文の多い料理店」だけ。亡くなった後に、同じく詩人だった草野心平の奮励によって世に広くその名を知られるようになったのです。

宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」と「雨ニモマケズ」を通じて遺した「生き様と死に様」とは!

宮沢賢治についての名解説を行って話題になったのは、人気お笑い芸人のオリエンタルラジオ中田敦彦です。1月23日放送のテレビ朝日系バラエティ番組「しくじり先生俺みたいになるな!!」で、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をテキストに、解説授業に挑みました。

「銀河鉄道の夜」は、未完であることに加えて、内容が難解なことから、多くの物議を醸してきた作品でもあります。中田敦彦は、「『銀河鉄道の夜』と『雨ニモマケズ』の両作品には、“他人のために生きる”という賢治の生き様が描かれている」と説きました。幼い頃から法華経に傾倒し、「他人のために尽くすことこそがこの世の理想郷である」との信念を抱いていた宮沢賢治にとって、「銀河鉄道」とは、他人のために自らの命を捧げた人々を天上世界へと導く旅程だったのでしょう。

「雨ニモマケズ」を書きとめた手帳は、宮沢賢治の死後に、仕事のトランクから発見されています。ある意味これは、死を覚悟した宮沢賢治が、自分の死に様を語るために、「遺書」として書き残したものとも考えられるのかもしれません。全ての罪を責任転嫁し、自分のためだけに生きているこの世の人々に、宮沢賢治が生涯を賭けて貫き通した「生き様と死に様」、そして「祈り」は届いているのでしょうか。

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