坂本九が「上を向いて歩こう」で達成した全米1位!不滅の記録!!
坂本九の全米1位になった「上を向いて歩こう」がなぜかあまり話題にならなかった?!
坂本九の代表曲、作詞・永六輔&作曲・中村八大の「上を向いて歩こう」は、全米音楽チャートBillboardHot100で3週連続1位という快挙を成し遂げました。これは1963年5月に楽曲が全米リリースされてから約1カ月後のこと。カリフォルニアのDJリッチ・オズボーンが、「上を向いて歩こう」を偶然手にし、ラジオで紹介したところ、問い合わせが殺到したのが、アメリカでのヒットのきっかけだったそうです。
しかし本国の日本では、Hot100で1位獲得ということがどれほどの快挙か認知が薄かったため、それほどニュースになりませんでした。さて、坂本九の「上を向いて歩こう」は、海外では「SUKIYAKI」ソングとして知られています。どうして「SUKIYAKI」ソングとなったのでしょうか。
最初に「SUKIYAKI」と英訳タイトルを付けたのは、「上を向いて歩こう」をインストロメンタル曲として演奏した、イギリスのケニー・ボール楽団の関係者でした。イギリス人には「上を向いて歩こう」そのままの発音は難しかったため、知っていた数少ない日本語の中から「SUKIYAKI」と名付けたのだそうです。
坂本九の「上を向いて歩こう」は今や不滅の記録!
坂本九の「上を向いて歩こう」が世界的な偉業を成し遂げた1963年当時、日本では、TVアニメ「鉄腕アトム」が放送され、紅白歌合戦が81.4%の視聴率を記録するなど、TVが急激に普及し始めていました。日本では、音楽チャートなどまだない時代。ましてや、Billboardを知っていた日本人もほとんどいなかったため、坂本九の「上を向いて歩こう」がHot100で1位を獲得したと知っても、「それは何?」という感じだったようです。
その年の日本レコード大賞は「こんにちは赤ちゃん」で、その後も、坂本九の「上を向いて歩こう」が日本レコード大賞に選ばれることはありませんでした。売上だけ見れば、初回にリリースされた1961年の11月から3カ月にわたって1位になっていたので、国内でも多くの人に聞かれていたことは確かですが、エルビス・プレスリーやバディ・ホリーの影響を受け、ロカビリーバンドで活動していた坂本九の独特な歌い方は、当時の日本歌謡曲としては聞き慣れなかった面があったのかも知れません。
しかし、現在に至るまで、アジア圏において、BillboardHot100で週間1位を獲得した曲は「上を向いて歩こう」ただ1曲であり、不滅の記録となっています。
坂本九思い出記念館が北海道にある理由とは!?「九」にこだわった造りに感動!
坂本九の記念館がなぜ北海道に?事故を予感した少女
坂本九が長らく司会を務めていた冠番組が、1976年に始まった、札幌テレビの福祉情報番組「ふれあい広場・サンデー九」。「ふれあい広場・サンデー九」は、聴覚障がいを持つ人にも観てもらえるように全編テロップを入れるなど、障がい者のあらゆる問題を取り上げ、時には海外にも目を向けて、福祉の大切さを伝えた番組でした。坂本九は、番組を通じて、北海道の養護施設や老人ホーム、盲学校などを訪ねて、取材や交流を続けていました。
その「ふれあい広場・サンデー九」の取材で知り合った施設で行なわれたパーティに参加した坂本九は、突然1人の少女に泣きつかれてしまいます。少女は「帰らないで!」と泣き止みません。「必ずまた来るから」と、優しく少女をなだめた坂本九。それから2週間後……坂本九は飛行機事故に遭い帰らぬ人に。
まるで飛行機事故を予感したような少女のエピソードを知った施設や地域の人たちは、「九人会」を発足し、記念館を立てようと寄付を募り、北海道は夕張の栗山町に「坂本九思い出記念館」をオープンさせたのです。
坂本九思い出記念館は「九」でできている!
「坂本九思い出記念館」が夕張の栗山町にオープンしたのは1993年です。1985年の飛行機事故から8年、記念館設立に向けて中心となったのは、「ふれあい広場・サンデー九」の取材がきっかけで、坂本九と親交を深めた人々でした。資金を集めるために、「九」にちなんだ「九人会」を発足し、999人の建設協力者を募ります。
これだけでも、十分に「九」づくしですが、記念館には、坂本九の「九」があらゆるところで見られます。まず建物に入る前に、出迎えてくれるのが、漢字の「九」の文字をかたどった門。9角形の棟の中には、さらに9角形のショーケースがあり、坂本九の写真や記念品、愛用の品などが所狭しと飾られています。
入館料は無料ですが、受付には募金箱が置かれている他、障がい者たちが作った商品や、坂本九のCDを購入することも可能です。坂本九が「ふれあい広場・サンデー九」で取り上げた福祉情報も数多く見ることができる希少な記念館で、観光地として訪れるだけでなく、福祉に関する資料館としても優れた記念館となっています。
坂本九の偉大さをベビメタの話題で再確認
坂本九が飛行機事故で亡くなったことは、芸能界において、大きな損失でした。もしも……などと仮定の話を始めればキリがありませんが、もしも坂本九が生きていたなら、芸能界で絶大な存在となり、誰もが敬う重鎮になっていたに違いありません。なぜなら、世界各国で1300万枚を超える売り上げを誇る歌「上を向いて歩こう」は、坂本九にとってだけではなく、日本の財産として歌い継がれるべき曲のひとつになっていると言えるからです。
つい最近では、メタルダンスユニットのベビーメタルが、Billboardワールドアルバムチャートで1位を獲得したという話題から、坂本九が「上を向いて歩こう」で成し遂げた快挙の凄さが再認識されています。さらに、ジャズチャートでは、上原ひろみが日本人初の1位を獲得。坂本九に続けとばかりに、日本人ミュージシャンの躍進が続いているのです。
世界中にこれだけある楽曲の中、日本の曲がランキングされることは本当に素晴らしいこと。53年前にHot1003週連続1位を獲得した坂本九も、このランキング入りを聞いて、天国で拍手喝采していることでしょう。
不滅の記録を成し遂げた坂本九でしたが、飛行機事故によって急逝し、伝説となってしまいました。突然坂本九を失って悲痛な思いをしたファンはもちろんですが、やはり最も苦しみ抜いたのは、家族。当時6年生だった長女で、今は歌手として活動している大島花子は、「感情のスイッチをオフにした」と語っています。
おとなになった今でも、父親の飛行機事故の映像などを目にすると「感情のスイッチをオフ」という作業をしなければ、見ることができないそうです。「上を向いて歩こう」を聞いて、事故からの教訓への思いを新たにする、そういった意味でも、坂本九が遺したものは大きいといえるでしょう。