澤井信一郎が監督になるまでの経緯は?助監督を20年続けたワケ
◆死没:2021年9月3日
◆出身:静岡県
◆デビュー作:野菊の墓(1981年8月)
澤井信一郎は東映でマキノ雅弘に師事
澤井信一郎(さわいしんいちろう)は1961年に東京外国語大学ドイツ語科を卒業し、東映に入社。映画監督として活躍していたマキノ雅弘に師事し、映画について学びます。
脚本や助監督として映画やドラマの制作に携わった澤井信一郎は、1970年9月に高倉健主演で公開された「昭和残侠伝 死んで貰います」、同じく高倉健が主演を務め、1980年1月に公開された「動乱」などの人気映画で助監督を務めています。
澤井信一郎が監督昇進を断り続けていた理由とは?
澤井信一郎は東映へ入社後、様々なヒット作品に助監督や脚本で携わってきました。そして東映入社から20年もの月日が経った1981年、ようやく監督としてデビューしています。
助監督時代から出演者とコミュニケーションをとり、誰もが認める名助監督と言われていた澤井信一郎でしたが、初めて監督として映画を撮影したのは43歳と、少し遅いデビューとなりました。
しかし助監督を務めていた頃から俳優陣の声にしっかりと耳を傾け、納得してもらった上で撮影することを信条としていた澤井信一郎には、デビュー作品が決まる以前にも度々監督の話が持ち込まれていたといいます。それをあえて全て断り助監督を続けていたのは、監督になれば東映の社員からフリーになり、生活が不安定になると考えてのことでした。
澤井信一郎が監督デビューを飾った後、メガホンをとったのは13作品。そのどれもがクオリティを高く評価され、澤井作品には外れがないと言われています。多くの映画ファンが、もっと多くの澤井信一郎監督作品を観たかったという思いを持っているのではないでしょうか。
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澤井信一郎「Wの悲劇」「野菊の墓」のストーリーや出演者は?アイドル映画の巨匠
澤井信一郎が監督を務めた「Wの悲劇」「野菊の墓」のあらすじは?
澤井信一郎が監督として手掛けた映画で代表作といえるのは、同名タイトルの小説を原作として映画化された「Wの悲劇」「野菊の墓」の2本でしょう。
「Wの悲劇」は、薬師丸ひろ子の主演で1984年12月に公開された作品です。薬師丸ひろ子演じるヒロイン・三田静香は劇団の研究生として日々スターを夢見て稽古を重ねます。しかし、劇団の次回公演作品に決まった「Wの悲劇」の主役選考オーディションでは同期のかおり(高木美保)が合格。静香に決まったのは、セリフがたった一言の端役でした。
静香が努力する姿を公園で見て一目惚れした元劇団員の森口昭夫(世良公則)は、落ち込む静香に俳優時代の苦悩を語ります。そして、静香がスターになれなかったら結婚しようとプロポーズ。もしもスターになれた時には静香の楽屋に花束を送り、自分は身を引くと約束します。
そんな中、劇団の看板女優・羽鳥翔(三田佳子)は愛人がホテルで密会中に突然死するトラブルに見舞われ、部屋の前を通りかかった静香に身代わりを依頼。その見返りとして、かおりに決まっていた次回公演の主役に抜擢すると約束します。
主役の座欲しさにこの条件を飲み、主演舞台に立った静香は迫真の演技で観客の拍手喝采を受け、劇団員にも祝福されます。しかし、役を奪われて静香を恨むかおりがスキャンダルの真実を暴露。再びスキャンダルの渦中に巻き込まれる静香でしたが、それでも自分は舞台でしか生きられないと気付き、女優としての再起を決意。別れを告げられた森口は静香の気持ちを汲み、去っていく静香を拍手で送りだすというストーリーでした。
1981年8月に公開された「野菊の墓」は、澤井信一郎の監督デビュー作です。同作は、坂東三十三ヶ所のお礼所を訪れた老人(桑原正)が若かりし頃に淡い恋心を頂いた従姉妹・民子(松田聖子)を想い、昔を振り返る形でストーリーが始まります。
2歳年上の民子は政夫が15歳の時、病弱の母の世話をするために家へやってきました。ともに生活をするうちにお互いを想い合うようになる政夫と民子。政夫の母親は2人の仲が周囲で噂され、中傷する声も出始めたことを気にかけ、2人を引き離そうとします。
政夫は予定よりも早く中学校の寮へ。民子には縁談話が持ち上がり、一方的に結婚を決められてしまいます。この話を知った政夫は慌てて家に戻りますが、民子は花嫁衣裳を身にまとい、車で嫁ぎ先へ向かうところでした。去っていく花嫁行列にりんどうの花を投げつけ、政夫の淡い恋は終わります。
それから数ヶ月後が経ち、母親に呼ばれて家に戻った政夫を待っていたのは、嫁ぎ先で流産し、冷たく扱われて実家へ戻された民子が、病に臥せったまま世を去ったという悲しい知らせでした。時を経て、政夫は民子の面影を胸に巡礼の旅へ。そして冒頭のシーンに戻り、物語は終わります。
澤井信一郎は松田聖子や薬師丸ひろ子などを主演に抜擢して話題に!
澤井信一郎は監督デビュー作となった「野菊の墓」で松田聖子を、「Wの悲劇」では薬師丸ひろ子を、1985年9月公開の「早春物語」では原田知世を主演に起用しています。
松田聖子は当時19歳、薬師丸ひろ子は20歳、原田知世は17歳と若い女性タレントを主演に抜擢。薬師丸ひろ子、原田知世は大女優と呼ばれるまでに育て上げました。
多くの女性アイドルや女優を監督作品に起用し、ヒットさせた澤井信一郎は“アイドル映画の巨匠”と呼ばれていました。
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澤井信一郎が死去で歴代出演者や妻のコメントは?
澤井信一郎の死因は?もう一度映画を撮る願い叶わず
澤井信一郎は2021年9月3日午後7時5分、多臓器不全により都内の病院で83年の生涯を閉じました。
2007年3月公開の「蒼き狼 地果て尽きるまで」を最後に、監督業は事実上の引退をしていた澤井信一郎。その後はもう一度映画を撮ることを目標に長い闘病生活を続けていましたが、その願いは叶いませんでした。
澤井信一郎の監督作品に出演した俳優や妻のコメントは?
澤井信一郎は1981年から2007年まで、監督として映画界で活躍。キャストやスタッフと密にコミュニケーションをとり、双方が納得した上で撮影を進めるスタンスは信頼を集め、良い作品づくりにもつながっていたといいます。
澤井信一郎死去の知らせを受け、「野菊の墓」で主演を務めた松田聖子は「慣れない私にとても温かくご指導いただきました」「監督の優しい笑顔が忘れられません」とコメント。最後の監督作品となった「蒼き狼 地果て尽きるまで」で主演した反町隆史は「4ヶ月に渡るモンゴルでの撮影は忘れません」「過酷の撮影の中で鼓舞し支えてくれた姿が心に残っている」と故人を偲びました。
映画界からその死を惜しむ声が寄せられる中、澤井信一郎の妻は「もう一度映画の現場に立つことを夢見ておりましたが、かなうことなく旅立ちました」「澤井の監督した作品をもう一度ご覧頂き、偲んで頂くのが何よりの供養になることと思います」とのコメントを発表しました。
サスペンスタッチの作品から時代劇、ラブストーリー、テレビ界では特撮ドラマ「宇宙刑事シャイダー」の監督を務めるなど幅広いジャンルの作品を手がけた澤井信一郎。「Wの悲劇」、1993年8月に風間トオル主演で公開された「わが愛の譜 滝廉太郎物語」でそれぞれ日本アカデミー賞の優秀脚本賞と優秀監督賞を獲得し、「Wの悲劇」では最優秀監督賞に輝きました。
名匠が遺した作品はこれからも色あせることなく、後世へと語り継がれていくことでしょう。
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