高杉晋作の奇兵隊伝説!エピソードや辞世の句が最高にイカしてる!

高杉晋作が組織した奇兵隊とは?伝説エピソードまとめ!

高杉晋作が組織した奇兵隊とは?悲劇的な最後を迎えていた

高杉晋作は、江戸時代後期の動乱期を駆け抜けた長州藩士です。尊王攘夷派の志士として活躍し、江戸から明治へと大きく時代が変わるきっかけを作りました。幕末に、イギリスやフランスといった列強四国と下関戦争を起こした長州藩は惨敗。力の差を思い知らされたことから、海外情勢に詳しい高杉晋作を呼び出し、意見を聞くことにします。

20歳そこそこの若さだった高杉晋作は、「臣に一策あり」と一言。続けて、「請う、有志の士を募り一隊を創設し、名づけて奇兵隊といわん」と述べました。これが、高杉晋作が23歳のときに結成した、近代的なシステムを備えた軍隊「奇兵隊」のはじまりです。志があれば、身分に関係なく参加できると呼びかけると、4日間で、60人が集まったと言います。

その後も隊士の数は増え、武士のみならず庶民も参加し、西洋式の戦術と兵器を備えた奇兵隊は、諸外国の上陸に備えて、下関沿岸を防御する任務につきました。1863年、奇兵隊のメンバーが武士を斬りつける事件が発生(教法寺事件)したため、高杉晋作は、その責任をとり、一度は奇兵隊の総監を解任されてしまいます。

しかし、幕府による第一次長州征伐で長州藩が敗北すると復帰。第二次長州征伐において、幕府軍を撤退させることに成功しました。高杉晋作亡き後も、奇兵隊は、倒幕を目的とした戊辰戦争で活躍しますが、明治時代になって、戦がなくなると、解雇命令が発せられ、多くの者が職を失うことに。一部の隊士は反乱を起こしますが、最後は明治政府に鎮圧され、130人余りが処刑されて騒動は終わります。

高杉晋作の伝説エピソードまとめ!武士からお坊さんに?!

高杉晋作は、1839年に生まれ、1867年に没するまでの27年という短い生涯にもかかわらず、数々の伝説的なエピソードを残しています。1863年、高杉晋作は、「今こそ倒幕に向けて動こう!」と長州藩に訴えましたが、「まだ10年早い」と言われてしまいました。それを聞くと、「では10年暇をいただきます」と休暇届を提出。勝手に頭を剃って、お坊さんになってしまったそうです。

また、藩に相談せずに、藩のお金で軍艦を購入したことが2回ありました。今でいうと数億円にもあたる金額だというからその大胆さには驚くばかりです。さらに、当時は死罪に処せられるのが普通だった脱藩行為を5回もしています。それでも死罪にならなかったのは、やはり海外事情に通じ、頭脳明晰だった高杉晋作が長州藩から頼りにされていたからでしょう。

高杉晋作の辞世の句がイカしてる!妻の他にも愛人が?

高杉晋作の辞世の句は尼さんとの共作だった?

高杉晋作は、1867年、27歳の若さで肺結核により亡くなりました。その際、「おもしろき こともなき世を おもしろく」という辞世の句を残したと言われています。「面白くなるのもならないのも、自分の考え方次第」といったところでしょうか。革命児らしい心のありようが伝わってくるかのようです。このとき、病床で下の句を継げない高杉晋作に代わって、「住みなすものは 心なりけり」と続きをよんだのが、彼を看病していた野村望東尼(のむらもとに)でした。

それを聞いた高杉晋作は、「おもしろいのう」と言って、息を引き取ったとも伝えられています。野村望東尼は、幕末の女流歌人。福岡藩士だった夫が亡くなると、出家して尼となり、幕末の志士たちのサロン的存在だった「平尾山荘」の庵主を務めていました。

福岡藩士の紹介で、幕府のお尋ね者だった高杉晋作をかくまったこともあったと言います。それがとがめられて、島流しにも遭いましたが、高杉晋作の命により救出されて、彼の最期を看取ることになりました。自分の子を幼くして亡くしている野村望東尼は、高杉晋作をわが息子のように思っていたのかもしれません。

高杉晋作の妻は防長一の美人!愛人がいたって本当?

高杉晋作は、1860年に、防長一(長州藩の通称)の美人と言われた山口町奉行・井上平右衛門の次女まさと結婚しました。しかし、妻まさとは別に愛人がいたという高杉晋作。それが、おうのという芸者です。おうのの家は貧しく、11歳の時に下関の芸者屋に売られました。

15歳ころから芸者として座敷に出始めて、20歳の時に、遊びにきた高杉晋作と出会います。24歳だった高杉晋作は、妻のまさがいたにもかかわらず、おうのの美貌に惚れて、1863年に身請けし、妻とはほとんど一緒におらず、おうのをそばに置いていました。高杉晋作の死後、愛人のおうのは、高杉晋作の名を汚してはいけないと尼となり、谷梅処と名乗ったそうです。

高杉晋作の没後150年を記念して特別展を開催!「高杉晋作の決意」とは?

高杉晋作の出身・山口県萩市にある萩博物館で、高杉晋作没後150年を記念した特別展「高杉晋作の決意-明治維新への助走」が開催されました。本展は、日記や書簡などの資料が25点も展示され、幕末の動乱期を舞台に活躍した高杉晋作の軌跡を追っています。展示の目玉は、高杉晋作が上海を視察したときの手記である「遊清語録」。

アヘン戦争に負けた中国が、欧米に屈し、まるで植民地のようになってしまった状況を目にし、「日本が上海の二の舞になってしまう。なんとかしなければ!」と決意を固めていく様子が分かります。もとより、「高杉晋作資料室」が設けられている萩博物館では、特別展の開催にあわせて、高杉晋作の甲冑も展示されました。

高杉晋作が使用した甲冑は、国内に2領しか現存していません。そのうちの1領であることに加え、奇兵隊の陣中で実際に使用していた甲冑とあって、歴史ファンにとってはたまらなかったでしょう。高杉晋作は、27年という非常に短い人生の中で、たくさんの記憶に残るエピソードを残しました。

どの逸話も、普通の人にはなかなかできない事柄ばかりです。歴史に「もしも」は禁物ですが、優れた決断力と行動力を備えていた高杉晋作がもしも病気にならなかったら……、日本がどのような方向に進んでいったのかは見てみたかった気がします。高杉晋作ら「幕末の志士」といえば、2018年のNHK大河ドラマは、西郷隆盛が主人公の「西郷どん(せごどん)」です。配役が次々に発表されている最中ですが、高杉晋作を演じるのは誰なのかも楽しみでなりません。

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