細川忠興はヤンデレ性格の元祖!?細川ガラシャへの偏愛ぶり!

細川忠興はヤンデレ性格の元祖!?細川ガラシャへの偏愛ぶり!

細川忠興はヤンデレ性格の元祖!?

細川忠興は、戦国時代から江戸時代初期にかけて実在した、足利氏の支流・細川氏出身の武将です。明智光秀の娘・玉子(細川ガラシャ)が正室であったことでも有名な細川忠興ですが、足利義昭に始まり、一躍乱世を駆け上った織田信長や豊臣秀吉、江戸幕府を開いた徳川家康と、時の有力者に仕え、現代まで続く肥後細川家の基礎を築いた人物として、歴史家に一目置かれる存在でもあります。

そんな細川忠興、ヤンデレ性格の元祖ではないかといわれているのをご存じでしょうか?ヤンデレとは、「病み」と「デレ」の合成語。ヤンデレの意味は、相手への好意が強く高まりすぎた結果、病的ともいえるレベルの精神状態になってしまうことを指します。

冷静でありながら激情家でもあったと伝えられる細川忠興の性格。家臣が何か気に入らないことをしたら手打ちにしたこともあったとか。細川忠興の、激情によって度を越してしまうヤンデレ性格は、戦国一の美女とうたわれた妻の細川ガラシャに向けられることもありました。細川忠興が、妻を愛するゆえに、度を越してしまったエピソードも少なからずあります。
美貌で知られた細川ガラシャ。ある日、庭師が、細川忠興の妻・細川ガラシャに見とれていたことから、細川忠興は、その庭師を手打ちにしてしまったそうです。

これが事実であれば、確かに細川忠興は、ヤンデレ性格だったのかもしれません。過剰な愛……うらやましくもあり、怖くもあります。

細川忠興の妻細川ガラシャへの異常な偏愛ぶり!

細川忠興は、ヤンデレ性格になってしまうほど、妻の細川ガラシャを愛していました。その愛は、異常とも言える偏愛ぶりを見せていたといいます。
細川ガラシャの父である明智光秀は、本能寺の変の首謀者ですが、織田信長を倒した直後に自身も討ち取られてしまいました。そのことにより、逆臣の娘となってしまった娘の細川ガラシャ。当然、細川忠興は、細川ガラシャを離縁するものとみられましたが、強い愛情ゆえ、細川忠興には離縁ができませんでした。

離縁できなかった細川忠興は、丹後国に細川ガラシャを幽閉します。幽閉は、約2年間にも及んだとか。幽閉を解かれた後、細川ガラシャは、細川忠興の屋敷に戻ってきましたが、細川忠興は、細川ガラシャを四六時中監視していたともいわれています。
細川忠興の偏愛ぶりは、最終的に、細川ガラシャを自殺に追いやってしまいました。細川忠興は、戦で屋敷を離れる折に「妻の名誉に危ういことがあったら、妻を殺せ」と言い残したそうです。その後、豊臣秀吉の家来である石田三成が、徳川家康に近い大名の妻子を人質に取る作戦を立て、細川ガラシャに人質になるよう迫る事件が起きます。

細川ガラシャは、石田三成の要求をきっぱり拒否し、細川忠興の望み通り、家老に介錯させて壮絶な最期を遂げました。自ら命を絶ってまで、細川忠興の偏愛ぶりに従ったとは、時代のなせるわざとはいえ、細川ガラシャもの愛もまた本物だったのかもしれませんね。

細川忠興には側室がいた?黒田長政との不仲の真相は?

細川忠興にはなんと側室がいた?

細川忠興の、妻の細川ガラシャへの偏愛ぶりはつとに有名です。仲の良い夫婦としても知られていた細川忠興と細川ガラシャでしたが、細川ガラシャが幽閉された後、夫婦の関係に変化が訪れたといいます。離縁を拒み、細川ガラシャを幽閉している間、細川忠興は、なんと側室を持ったそうです。

それを知った細川ガラシャは、細川ガラシャの父も、細川忠興の父も、側室を持たなかったこともあり、激怒。一方、側室を持ちながらも、細川ガラシャに対する異常な偏愛ぶりは変わらなかった細川忠興は、厳しい監視を続けました。すると、細川ガラシャは、次第にうつ病に悩まされるようになったとか。後に、細川ガラシャはキリスト教と出会うことで、自分を取り戻していったといわれています。

なお、史実によると、細川忠興の側室は、郡宗保、明智光忠、清田鎮乗、真下元家の娘など複数いたとされています。

細川忠興と黒田長政の不仲説の真相はいかに?!

細川忠興の細川家と黒田家は、力関係がめまぐるしく入れ替わる乱世においても、良好な関係を保っていました。それが、ある事件をきっかけに不仲になってしまったのだとか。その原因は、細川忠興と黒田長政にありました。
関ヶ原の合戦後、筑前を拝領した黒田長政。一方で、細川忠興も、黒田長政の旧領であった豊前・中津へ入国します。この当時、国替えの作法として、出ていく側の大名は、年貢を徴収せず、入国してくる大名が年貢を徴収するのが通例となっていました。

しかし、黒田長政は、筑前へと移る際に、旧領の豊前・中津で年貢を徴収してから筑前へ入国したため、細川忠興は年貢を取りはぐれることに。その後、細川忠興は、徳川家康を通じて、年貢の返還を求めるも、黒田長政は拒否。激怒した細川忠興と一触即発寸前になります。

徳川家康の家臣が仲裁に入り、年貢取り逃げ事件は黒田長政が分割で返済することで終息をみせましたが、この事件を機に、細川忠興と黒田長政は不仲に。犬猿の仲となった細川家と黒田家が仲直りするのは、それから100年後。細川家と黒田家の一触即発も何度かあったようで、長い不仲となりました。

細川忠興は頭脳と戦略で生き抜いてきた!

細川忠興が生きたのは、外様大名が、幕府の顔色を見ながら、びくびく暮らしていた時代。30年間で、約4割が領土を没収された過酷な時代でした。そんな時代、細川忠興は、息子である細川忠利とともに、情報を駆使した頭脳戦で生き延びたといわれています。細川忠興・忠利親子は約3000通もの手紙をやり取りし、ライバルの情報から噂話、幕府の内情まで手に入れていたそうです。

幕府内で失脚した人や出世した人のリストを受け取り、出世した人の傾向を調べ、幕府が何に期待を寄せているかをリサーチ。他の外様大名が目の前のことに動いているのに対し、細川忠興・忠利親子が見据えていたのは、常に未来。名武将の法要となれば、どこの大名より良い贈り物をし、良く見せようとするのが通例だった時代にあって、徳川家康の死去50日法要における贈り物をしないなど、古き概念に囚われないスタンスを貫いたと伝えられています。

1637年の島原の乱で、細川家は、敵のリーダー天草四郎の首を獲りますが、恨みや妬みで足をひっぱられないように、幕府が正式発表するまで自ら手柄を語ることはしませんでした。これも、情報戦、心理戦に長けた、細川忠興・忠利親子の頭脳作戦といえるでしょう。古き概念に囚われず、目情報を巧みに分析し、先の事より将来を見据えることを大切にした細川忠興。まさに、情報を制する者は、ビジネスを制す!ですね。

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