山城新伍の晩年が悲しすぎる!元嫁や娘の関係とは?
山城新伍の二枚目時代劇スター波乱の役者バカ人生とは
「チョメ、チョメ」という流行語も死語になって久しいですが、この言葉を生み出したのが、俳優で人気タレントだった山城新伍です。
東映のニューフェイス出身の山城新伍は、1960年、テレビ時代劇「白馬童子」で子供たちの人気者となりますが、時代劇は衰退期。根は二枚目ながら、その後は、「不良番長」や「仁義なき戦い」シリーズからポルノ映画まで、どんな映画にも貪欲に出演続け、それがテレビ進出のきっかけとなります。
そして1980~1990年代は、バラエティやクイズ番組の司会など、テレビタレントとして活躍。山城新伍は1938年生まれで、2009年にまだ70歳の若さで亡くなっています。往年のコミカルなイメージとはほど遠く、その最期は悲惨なものだったようです。
山城新伍がどんなに浮気しても愛してやまなかったお姫様女優の妻と娘
山城新伍は、一見大らかな性格のように見えます。しかし、実家は歯医者で、「自分はインテリ・二枚目」といったエリート意識が高く、その分、俳優として一流になれなかったコンプレックスが強かったとも伝えられます。そのため、身内やスタッフなどの評判はあまり芳しくありませんでした。
おまけに乱脈な女性関係やルーズな金銭感覚から、お姫様女優だった花園ひろみとは、結局2度も離婚し、娘からも絶縁を言い渡されます。山城新伍はその後、糖尿病を患って歩くのもままならず、さらに認知症となり、最期は、特別老人ホームで独り、肺炎で亡くなりました。
山城新伍はコミカルから強面まで!多才ぶりは俳優業だけではなかった!
山城新伍は東映エログロナンセンス路線の帝王
山城新伍は、次代を担う正当な二枚目俳優としてデビューしますが、すでに時代劇は凋落し、東映はその後、任侠、実録やくざ、あげくはエログロナンセンス路線へと迷走します。大顔で古いタイプの二枚目であった山城新伍は、高倉健や菅原文太、松方弘樹などの後塵を拝することに。
その後、彼らと違って機転が利き、都会的なコメディセンスを持っていた山城新伍は、東映のエログロナンセンス路線を一手に引き受けるようになりました。しかし、それで終わらないのがすごいところで、1973年からは、実録路線「仁義なき戦い」シリーズにキャスティングされ、強面演技で存在感を示します。硬軟自在に演じ分ける多才ぶりが合っていたのか、その後はテレビに活路を見出しました。
山城新伍は「チョメチョメ」でテレビ界のクイズ司会王となり、憧れの映画監督に!
山城新伍のテレビ出演作品の中でも、1977年より出演していた、日本テレビ「金曜10時!うわさのチャンネル!!」で見せた「旗本退屈男」のパロディは出色でした。テレビ東京「独占!男の時間」や、日本テレビ「EXテレビ」など、深夜テレビでは艶笑毒舌トークに冴えを見せ、フジテレビ「アイ・アイゲーム」では、あの「チョメチョメ」という言葉を生み出した山城新伍。TBS「クイズ天国と地獄」やMBS「クイズ!!ひらめきパスワード」など、数多くのクイズ番組の司会も務めました。
また、映画評論に留まらず、映画監督も務めています。たとえば、にっかつロマンポルノ「女猫」は、清純派女優だった早乙女愛の出演で大ヒットを記録。またバブル期には、松方弘樹、梅宮辰夫、千葉真一、渡瀬恒彦、北大路欣也ら仲間が総出演する念願の映画を制作しています。なんと、ハートフルな学校映画「せんせい」を監督した山城新伍でしたが、スポンサー企業がトラブルを起こし、幻の作品となってしましました。
山城新伍が一生を捧げた映画スターとして生きる矜持
山城新伍は、ある意味、戦後の東映の迷走とともにありました。1960年、「白馬童子 南蛮寺の決斗」に始まり、1963年、時代劇の終焉を飾った名作「十三人の刺客」には、刺客の1人として出演。1969~1972年の「不良番長」シリーズでは、主演の梅宮辰夫とともに、出演女優を片っ端から「チョメチョメ」してしまい、最後には出演してくれる女優がいなくなったとか。
1972年には、「徳川セックス禁止令 色情大名」や「温泉スッポン芸者」などの東映ポルノに出演するとともに、「仁義なき戦い」シリーズがスタート。菅原文太や松方弘樹たちと、今までの鬱憤を晴らすかのように大暴れするとともに、私生活でも、京都の祇園などで一晩の飲み代が1000万、2000万という、スターのメンツをかけた乱痴気騒ぎが毎夜繰り広げられたそうです。
1975年と1979年は「トラック野郎」シリーズに2回ゲスト出演。また1977年には、実相寺昭雄監督の「歌麿 夢と知りせば」という問題作にも出演しています。1980年以降は、テレビでの活動が中心となりますが、1987年「塀の中の懲りない面々」、1996年「岸和田少年愚連隊」などにワンシーンだけ出演して独特の存在感を示したのは、山城新伍自身が映画を楽しんでいたからでしょう。
日本映画の黄金期にデビューし、その後の映画動乱期を生き抜き、バブルの時代をテレビで過ごした山城新伍は、映画スターとして生きる矜持に捧げた一生でした。