淀川長治の名言の重みがスゴイ!映画解説に捧げた生涯

淀川長治の名言の重みがスゴイ!映画解説に捧げた生涯

淀川長治の名言の重みがスゴイ!映画から知る人間の本質

淀川長治は、「日曜洋画劇場」において、約32年もの間映画解説を続けた映画解説者・映画評論家です。少し太めの眉で、黒ブチ眼鏡をかけたおじいちゃんが、番組の終わりに、「さよなら、さよなら、さよなら」と言っていたのを覚えている方もいらっしゃるでしょう。そんな淀川長治は、あふれるような愛情を映画に注ぎ、数々の名言も残しています。

たとえば、「映画とは、国と国の垣根をなくすことね」。淀川長治は、映画とは何であるかについて、世界の言葉を持っていること、みんなが見て人間を知ることだと説明し、映画ほど人間について教えてくれるものはないと言っています。また人生とは、「濡れた心を持たないと、砂を噛むような味気ない人生になってしまう」と指摘。

「人間が生きるということは、突き詰めていけば死ぬことである」とも述べました。そして、生きることが死ぬことに帰着するということから、淀川長治は、「この一日を十分に生きねば損だ」という結論に至ります。

映画は、実に多くの人間の姿を描き出しています。それらを余すことなく観てきた淀川長治は、映画を通して、人との付き合い方や、物事への取り組み方、死生観を得たのでしょう。ストレスの多い日常生活の中で、時に涙をこらえる私たちに語られる「濡れた心」の大切さ。そして「この一日を十分に生きねば損だ」という淀川長治の言葉は、漫然と送っている毎日にカツを入れてくれるようです。

淀川長治、映画解説に捧げた生涯!子供時代から死ぬまで映画漬け

淀川長治が30年以上も務めた「日曜洋画劇場」の解説。それは、映画の見方や、作品の意図を、分かりやすく温かく説明してくれるものでした。

淀川長治が生まれたのは、1909年4月10日。親が映画館の株主だったということで、その影響を受け、子供時代からすでにかなり映画に詳しかったようです。青年になった淀川長治は、日本大学法学部美学科予科に入るも中退。1927年、雑誌「映画世界」の社員募集を見て編集部を訪れ、そのまま採用されました。一度実家に戻り、家族の店を手伝うという時期を挟んで、淀川長治の人生は、映画と深く関わり始めます。

1933年に、ユナイテッド・アーティスツ大阪支社に入社した淀川長治は、来日したチャップリンとの会談に成功します。このことから、淀川長治は、チャップリン評論の第一人者と目されるようになりました。1942年には、東宝映画の宣伝部に就職して、生涯の親友・黒澤明と出会い、1945年には、セントラル映画社のレクチャー部に勤務。

1947年には、映画世界社(後の映画の友社)に入社し、映画解説者・映画評論家として活躍し始めます。その後、1960年から3年間は、海外ドラマ「ララミー牧場」で解説を行うのですが、これが大人気に。1966年、淀川長治は、「日曜洋画劇場」の解説者となり、その仕事は、1998年、彼の死の前日まで続きました。

どこを見ても映画から切り離せない淀川長治の人生。映画からさまざまなことを学び、映画の素晴らしさを伝えることで、人生の本質を伝えてきたのが、淀川長治という人物です。

淀川長治「究極の映画ベスト1000」の内容とは?最後の言葉は「さよなら」ではなかった!

淀川長治「究極の映画ベスト1000」の内容とは?時代とジャンルを越えた映画と解説

淀川長治は、その死後も、映画解説・映画評論の世界に影響を与えて続けています。そのひとつが、「淀川長治映画ベスト1000」「淀川長治 究極の映画ベスト100」という本です。正確には、淀川長治自身が掲載作品を選んだのではなく、映画プロデューサーの岡田喜一郎が、「淀川長治ならばこれを選ぶだろう」という規準で、生前に彼が薦めていた作品も含めた映画作品がラインナップされています。

「淀川長治映画ベスト1000」では、1作品につき、300文字程度の淀川長治のコメントが記載され、「淀川長治 究極の映画ベスト100」は、1作品につき2ページを割いて紹介。2ページのうち1ページは、作品の画像やスタッフ、キャスト、あらすじなどの基本情報を紹介し、もう1ページは、淀川長治による作品解説という形をとっています。

紹介されている映画は、世界的な名作、古典といった定番から、日本では観る機会も少ないイランの映画まで、とにかく古今東西、あらゆるジャンルや国から選出されているのが特徴です。淀川長治による解説を読むと、単なるあらすじのまとめなどではなく、製作の意図や、作品のテーマ、淀川長治しか知らないエピソードなどが主軸となっていて、その深い知識に驚かされます。

これからたくさんの映画を観たい方には、どの映画を観ると面白いかというハンドブックになる「淀川長治映画ベスト」。すでに一定数以上の映画を観ており、知らない作品は少ないという方にとっても、「あの作品を淀川長治はこう観ていたのか」と、新しい発見のある本といえます。

淀川長治の最後の言葉は「さよなら」ではなかった!解説収録の翌日の死

淀川長治の言葉でもっとも知られているのは、番組の終わりに必ず言い添えた「さよなら、さよなら、さよなら」のあいさつでしょう。この世に「さよなら」した彼が、死の直前に遺した言葉もまた、その人生を総括したような、実に淀川長治らしい言葉でした。

淀川長治の親友・黒澤明が亡くなったのは1998年9月6日。その葬儀に出席した淀川長治は、「僕もすぐに行くからね」と言い、その言葉通り、約2カ月後の11月に倒れます。死の前日も、「日曜洋画劇場」の収録を行っていた淀川長治。その日は「ラストマン・スタンディング」の解説収録でした。

淀川長治は、体調を気遣って1発OKを出したスタッフを批判し、自分が納得できる2回目の収録でその日の仕事を終えます。しかしその後、急変。11月11日午後8時7分に息を引き取りました。病室に駆けつけた姪御さんへの最期の言葉は、「もっと映画を見なさい」。89歳の淀川長治が遺したものは、やはりどこまでも映画を見つめる言葉でした。

当時、淀川長治の体調はすでに悪化しており、1987年からは、収録スタジオに近い東京全日空ホテル34階のスイートルームで暮らすようになっていました。「棺桶がちゃんと入るかどうか、エレベーターの大きさを調べて決めた」というその部屋は、映画関係の書籍や資料でいっぱいだったといいます。淀川長治の葬儀には、映画関係者を中心に約500人が出席し、海外の名だたる監督、俳優たちからも、彼の死を惜しむ声が寄せられました。

淀川長治が「日曜洋画劇場」50周年特別オープニングに登場!40周年には解説DVDも発売

淀川長治ほど愛され、その死を惜しまれ、死後も影響を与え続けている映画解説者は他にいないかもしれません。それは、「日曜洋画劇場」にとっても同様です。2016年に50周年を迎えたことを記念して、2016年10月30日には、番組オープニングで淀川長治の姿を復活させています。この特別オープニング映像には、これまで同様の企画で放送された淀川長治の映像では見ることのできなかった60代前半の姿もありました。

その生涯を通じて、映画とは切っても切り離せない生活を送った淀川長治。「どの映画にも見所はある」という持論のもとに、誰にでも共感を抱かせる言葉の他にも、長年映画を見続けてきた人だからこそ分かる、映画の細部に踏み込んだ解説が人気でした。彼の映画解説は、死ぬ前日まで仕事をし続けていた「日曜洋画劇場」の大きな財産。2006年には、同番組の40周年記念として、そうした淀川長治の解説映像だけを集めたDVDが発売されています。

映画の本編は一切収録されておらず、ひたすら淀川長治の解説映像だけが収録されているという異色の構成ですが、彼の解説や映画に対する愛情にいつでも会えるということでファンから大切にされているそうです。淀川長治の映画に対する深い愛情は、時代をこえて、これからも人々に映画の魅力を伝え続けていくに違いありません。

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