いかりや長介の死因、原発不明頚部リンパ節がんの症状や治療方法は?

いかりや長介の死因、原発不明頚部リンパ節がんの症状や治療方法は?

いかりや長介の死因、原発不明頚部リンパ節がんの症状や治療方法は?

いかりや長介の死因、原発不明頚部リンパ節がんは自覚症状がない?

いかりや長介は、ザ・ドリフターズのリーダーで名俳優。惜しまれながら、2004年3月20日に他界しました。その死因は、原発不明頚部リンパ節がんでした。症状としては頚部やわきの下、股の付け根のリンパ節の腫れやしこりに伴った神経圧迫による痛みや発熱、全身倦怠感や体重減少、寝汗やかゆみなどが見られるそうです。

しかし、いかりや長介の場合、2003年5月にドラマ「高原へいらっしゃい」を降板して入院した当初、頚部にわずかなしこりが感じられるだけで、痛みなどの目立った自覚症状はありませんでした。いかりや長介が患った、頚部リンパ節がんを含む悪性リンパ腫の場合、腫れやしこり自体に痛みが無いことも珍しくないそうです。

また、風邪などの急性感染症によって引き起こされる、良性のリンパ節の腫れやしこりとの判別がつけにくいため、気が付かないうちにがんが進行してしまうケースも少なくないのです。

いかりや長介の死因、原発不明頚部リンパ節がんには治療方法がない?

いかりや長介の死因となった、頚部リンパ節がんを含む悪性リンパ腫の場合、外科的手術ではなく放射線療法や抗がん剤が標準治療として適用されます。特に原発巣のがんのタイプに由来するため、いかりや長介のように原発不明、つまり、最初にがんが発生した部位が分からないと、有効な治療方法の当たりがつけにくいのです。

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最近になって、原発不明がんは、発見の遅延が多いすい臓などの臓器が原発である事が多いことが分かってきました。また、画像診断の性能向上によって、原発不明がんと診断されるケースは減少しました。しかし、いかりや長介の場合は既に、原発巣が分からない程に多器官にがんが転移していたようです。

いかりや長介は、最初の入院で放射線治療などを行い、経過良好ということで7月には仕事復帰しました。しかし実は、その時には家族に「余命数ヵ月」と告げられていたといいます。近年、悪性リンパ種は高い確率で治癒できる様になりましたが、原発不明がんにはこういった現実があるのです。

いかりや長介の資産や年収は加藤茶や志村けんより多かった?ギャラ配分が不公平すぎる!

いかりや長介が率いるドリフターズを一躍スターダムに押し上げた「8時だョ!全員集合」。

全盛期、加藤茶の年収は14億円だったそうですが、これは同番組が放送されていた1969年~1985年までの間の事ですから、時価換算すると現在の42億円の価値があったと思われます。また、1974年からドリフターズ入りした志村けんは、24歳にしていきなり月収50万円。当時の大卒初任給が6万円程度だった事を考えると、笑いが止まらなかったはずです。

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ところが番組人気に伴って、1回1500万円の値がついていたドリフターズ。しかし営業が増えても、メンバーのギャラは大きく動きませんでした。志村けんによると、渡辺プロ時代には均等配分されていたギャラが、「ドリフターズ事務所」が設立された途端に「6:1:1:1:1」になったといいます。当然6は、いかりや長介。実際の総資産や年収額は不明ですが、当時の加藤茶を超えていたとしたら、恐ろしい金額であることは間違いありません。

いかりや長介ばかりがおいしいところ取り?不満を爆発させた加藤茶と志村けんは…

ドリフターズには、不当とも思えるギャラ配分をネタにしたコントが存在しました。そして当然、いかりや長介は本当にメンバーに大変嫌われていました。まだメンバーがアパート暮らしの時代、いかりや長介だけBMVを乗り回していたそう。その愛車に加藤茶が放尿したり、志村けんが故意にへこませるなど、腹いせ行為も絶えなかったといいます。

しかし、いかりや長介は彼らのリーダー。「全員集合」の放送2日前に行われる「木曜会議」では、いかりや長介中心にネタが考えられ、他の作家のアイディアを淘汰する程熱く取り組んでいたといいます。嫌い嫌いと言いつつも、メンバーは自分が考えたネタを披露する時には恐ろしく緊張したそうです。

また、いかりや長介が後の著書で彼らに対する賞賛を記している事からも、仕事上の関係は健全に機能していたと思われます。それは、いかりや長介の葬儀で読まれた加藤茶の弔辞の内容からも明らかです。また、志村けんが「やっぱ寂しいね」と語るのも、金よりも最期は妥協を許さない姿勢への敬意の方が勝ったという事でしょう。

いかりや長介が遺した財産!加藤茶や志村けん、小泉孝太郎もそれを受け継いだ!

いかりや長介が、ウッドベースを渋くつま弾くCMが話題になったことがありました。もしかすると、この時に初めてドリフターズが、ミュージシャンだった事を知った人も多かったはず。もっと言えば、ドリフ世代ではない若者が「踊る大捜査線」を観て、いかりや長介が初めから俳優だったと認識していても、おかしくないでしょう。

なぜなら、1985年にコメディアンから俳優に転向した直後から、いかりや長介の芝居には、既に何年もの年輪を刻んだいぶし銀の様な懐の深さがあったからです。そんな俳優・いかりや長介を「師匠」と慕ったのは、当時、絶大な人気を誇っていた総理大臣の息子・小泉孝太郎でした。

親の七光りと言われた彼を15年支えたのは、いかりや長介の「俳優はその時の正直な自分で勝負できる良い仕事」という言葉でした。以来、小泉孝太郎はいかりや長介の様な年齢を重ねて「円熟」と呼ばれる役者に近づくべく、研鑽を積んできたといいます。そしてその想いは、おそらくドリフターズのメンバーの胸にもあったはず。奇しくもいかりや長介最期の仕事は、亡くなった年の12月に放送された「40年だよ!ドリフ大爆笑スペシャル」となりました。

この時、いかりや長介は、いつ倒れてもおかしくない状態だったそうです。それでも、40年間妥協無く懸命に走り続けた集大成として、力を振り絞ったいかりや長介。その姿勢が、加藤茶や志村けんという大スターを生み、金の遺恨を募らせていた彼らをして「あの世で全員集合してコントをやろう」と言わせるのでしょう。何においてもプロフェッショナルだったいかりや長介の精神力は、実質的な資産より、多くの財産をこの世に遺したのではないでしょうか。

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