冨田勲は「月の光」「展覧会の絵」で世界的シンセサイザー奏者に!経歴は?

冨田勲は「月の光」「展覧会の絵」で世界的シンセサイザー奏者に!経歴は?出典:http://www.asahi.com/?iref=com_gnavi

冨田勲は「月の光」「展覧会の絵」で世界的シンセサイザー奏者に!経歴は?

冨田勲は「月の光」で日本人初のグラミー賞にノミネートされて世界的シンセサイザー奏者に!「展覧会の絵」はチャート1位!

冨田勲とは、世界的シンセサイザー奏者として知られる作曲家。2016年5月5日に、慢性心不全で84歳の生涯を終えました。

冨田勲本人は、11月に上演予定だった交響曲『ドクター・コッペリウス』の創作中で、倒れる1時間前まで「11月までは死ねないね」と、家族に冗談を言っていたほど意欲的に仕事に取り組んでいたそうです。慶応大学在学中に作曲家としてのキャリアをスタートさせた冨田勲は、NHKの大河ドラマ5作品のテーマ音楽を担当。

1970年代には、日本初のシンセサイザーを導入し、1年半を要して完成させたアルバム『月の光』(1974)が、全米で高い評価を受けて、日本人初のグラミー賞にノミネートされました。翌年の全米クラシカル・チャートでは2位を獲得した冨田勲。翌年の1975年に発表した『展覧会の絵』は、全米クラシック・チャートで堂々の1位!この偉業によって、冨田勲は、日本におけるシンセサイザーのパイオニアとしてだけではなく、世界的シンセサイザー奏者としてその名を世に知らしめました。

冨田勲の華麗なる経歴!

冨田勲は、1932年に東京都で生まれ、紡績会社の嘱託医だった父の転勤に伴い、中国の青島と北京で幼少時代を過ごしました。冨田勲は、父と一緒に行った天壇公園で回音壁の音を聞いたことがきっかけで、高校から慶応義塾高等学校に編入し、独学で作曲を始めます。慶応大学文学部で美学美術史を専攻しながら音楽理論を学び、大学生でありながら「ひばり児童合唱団」で演奏の指導や作曲を始め、在学中に作曲した合唱曲がコンクールで1位を獲得したことで作曲家になることを決意した冨田勲。

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その後は、NHKの大河ドラマや『新日本紀行』などのテーマ曲や、アニメ『ジャングル大帝』『リボンの騎士』などの音楽を担当します。冨田勲とシンセサイザーを結びつけたのは、輸入レコード店で「モーグ・シンセサイザー」を用いた作品に出会ったこと。日本でいち早くシンセサイザーを導入した冨田勲は、『月の光』で日本人初のグラミー賞にノミネートされることになりました。

冨田勲・初音ミクコラボCD「イートハーヴ交響曲」とは?息子や娘も凄かった!

冨田勲がCD「イーハトーヴ交響曲」で初音ミクとコラボ!

冨田勲『イーハトーヴ交響曲』とは、冨田勲が、大オーケストラと合唱団を率いて、宮沢賢治文学の世界観を表現した大作です。そこに、なんとあの「初音ミク」がソリストとして、歌とダンス映像でコラボ!2012年11月23日、東京オペラシティで、大友直人を指揮者に迎えて開催した『イーハトーヴ交響曲』コンサート・ツアーに登場した初音ミクは、CGを駆使した映像で、指揮者に合わせて、歌と踊りをリアルタイムで披露。

この革命的なライブは大成功を収めました。この成功を受けて、初演のライブ録音アルバムが日本コロンビアから発売。売り上げが1万枚を超えるという、この業界では異例ともいえる大ヒットを記録しました。

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冨田勲の娘と息子も凄かった!家族は?

冨田勲の家族構成はどうなのでしょう?冨田勲の妻は、女優で歌手の本間千代子の姉・明子で、息子と娘がいます。冨田勲の息子の勝は、慶応大学の医学部と環境情報学部の教授です。これだけでも凄い経歴なのですが、学生時代はスポーツ万能で、サッカーや馬術でも成績を残し、高い評価を受けていたとか。医学部に進学したのは、祖父である冨田勲の父親や叔父が医者だったことが影響しているのでしょう。

また、教授職だけでなく、学生たちが研究した「スパイバー」という、鋼鉄の340倍もの強さを持つ強靭な人口合成のクモの糸の技術支援や、ベンチャー企業の立ち上げなどにも携わっています。冨田勲の娘の妹尾理恵は、父親の日本酒好きの影響を受け、『酒サムライ』という日本酒を世界にPRする団体に所属し、SAKEソムリエとして大活躍しています。息子・娘の2人とも、父・冨田勲のアーティスティックで独創的、好奇心旺盛な遺伝子をしっかりと受け継いでいるようですね。

冨田勲の音楽家としての原点は回音壁?初めて輸入したアナログシンセは1000万円!

冨田勲の音楽家としての原点は、父親の転勤先である青島で回音壁に触れたことでした。北京市内の天壇公園にある回音壁とは「ささやきの声」ともいわれ、小さな声で話をしても、音の反射で、遠くまで声が聞こえるという直径30mほどの巨大な円形の壁のことで、幼かった冨田勲に衝撃的な影響を与えました。

大学卒業後に、音楽家としての道を歩み始めた冨田勲は、大阪万博の前年、当時は箪笥(たんす)と呼ばれた「モーグⅢ」というアナログシンセサイザー音楽と運命の出会いをします。「自分の求めていたものはこれだ!」。冨田勲は、1千万円もの大金を払って、「モーグⅢ」をアメリカから個人輸入しました。

しかし、税関で「軍事機器では?」と疑われて、数カ月間足止めを食らってしまいます。それほど苦労して手に入れたシンセでしたが、説明書が付いておらず、結局使いこなすことができませんでした。その後一念発起した冨田勲は、自宅に電子音楽スタジオを作り、電子音で管弦楽曲を作ることにチャレンジ。シンセサウンドを使った様々な作品を世に送り出します。

しかし、冨田勲のデビューアルバムは、日本では全く相手にされませんでした。これこそが、冨田勲の名を世界に知らしめたグラミー賞ノミネート作品『月の光』です。80歳を過ぎても冨田勲の制作意欲は全く衰えず、亡くなる寸前まで仕事に没頭。息子の勝は、「父は低血圧で意識が薄れることが多かったので、本人は亡くなったことに気付いておらず、また意識が戻ると思っているのではないでしょうか」と語っています。

日本シンセのパイオニアとして、世界中のアーティストに多大なる影響を与え続けた冨田勲の魂は、今もイーハトーヴの銀河鉄道に乗って、壮大な宇宙を駆け巡っているに違いありません。

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