栗橋茂の破天荒伝説を金村義明が赤裸々告白!現役時代の成績や年俸は?

栗橋茂の破天荒伝説を金村義明が赤裸々告白!現役時代の成績や年俸は?

栗橋茂の破天荒伝説!金村義明が著書で赤裸々に綴った!

栗橋茂(くりはししげる)は、近鉄バファローズの主力打者だったプロ野球選手です。1970~1980年代にかけて、近鉄で外野手として活躍した左打者で、鍛え上げた筋骨隆々の肉体で「和製ヘラクレス」の異名を取り、4番打者を務めたこともあるほどのスラッガーでした。

また、強烈な個性派ぞろいだった当時の近鉄で引けを取らず、酒豪にして豪快な性格で伝説的なエピソードの数々を残しています。近鉄の後輩である金村義明が、著書『80年代パ・リーグ 今だから言えるホントの話』にて、その伝説を明かしています。公私ともに付き合いが深く、自動車の運転免許を持っていない栗橋茂のお伴で、グラウンドへの送迎を任されていました。

毎晩のようにクラブへ飲み歩き、当然のように朝帰りで私服のまま練習に参加していた栗橋茂。女性関係もなかなか派手で、別れる際は手切れ金を要求されたらしく、金村義明の見立てでは総額数千万円は支払っていたようです。性格は血気盛んで、飲み屋でのケンカも1度や2度では済まない武闘派でした。

高知・宿毛キャンプでは地元の漁師とケンカ、宮崎キャンプでも指導陣とケンカ。監督やコーチが相手であろうと、ささいなことでキレていたと言います。ケンカを止めに入った金村義明も、逆に殴り返された被害者の1人でした。ある時は「カレーに入れる肉は牛肉か、それとも豚肉か」で口論になったとか。

まるで昔の不良みたいな「ケンカ上等」の日々ですね。面白おかしく話が盛られている可能性はありますが、かなりの暴れん坊だったことを証明しています。これだけの伝説について、金村義明は「栗橋さんこそオレが見た最後のサムライや」と振り返っています。

栗橋茂は、1951年8月10日生まれで東京都板橋区出身。中学2年生から高校卒業までヤクルトの配達バイトで家計を支え、高校時代の学費を全部バイト代で賄ったそうです。帝京商工高校(現・帝京大学高校)を卒業して、駒澤大学に進学した後は、東都大学リーグで2度の優勝を経験。

1973年の明治神宮野球大会で、同志社大を破って優勝を飾るなどの実績が評価され、同年のドラフト会議で近鉄の1位指名を受けてプロ入りしました。3年目の1976年にレギュラーに定着してからは、1979年からのリーグ2連覇にも貢献。1989年限りで現役引退するまで中心打者として活躍しています。

栗橋茂の成績や年俸は?長打力に優れた選球眼を併せ持つ主力打者の年俸は3000万円台

栗橋茂の現役時代の通算成績は、16年間の現役生活で1550試合出場、4674打数1301安打215本塁打701打点、打率2割7分8厘を残しています。同時に、最高出塁率1回と、ベストナインを3回受賞していますが、主な打撃タイトルとは縁がありませんでした。

プロ入り3年目の1976年に、101試合に出場してレギュラーを獲得した栗橋茂は、5年目となる1978年に初の規定打席に到達。128試合に出場して打率2割9分2厘、20本塁打72打点の成績で不動のレギュラーを獲得しました。この頃には4番打者を任されるなど、チームに欠かせない主力として定着しています。1979年には130試合にフル出場し、キャリアハイの32本塁打を打つなど、4番・5番打者として活躍し、チームにとって念願だったリーグ優勝の原動力になりました。

翌1980年には、打率リーグ3位の3割2分8厘を打った栗橋茂は、出塁率4割6厘で最高出塁率のタイトルを獲得してリーグ連覇にも大きく貢献しています。その後も、1985年には史上37人目のサイクルヒットも記録するなど、打率3割前後を打てる打力に加え、20本塁打以上を5度記録した長打力を持ち味に、長年にわたり主力打者として活躍。

長打がある割に、三振はそれほど多くなく、優れた選球眼も併せ持っていました。走力もあった栗橋茂は、2桁盗塁を5度も記録しますが、ポジションが外野で外国人選手とかぶるため、出場機会が年々減少していくことに……。晩年は、代打要員としてプレーしていました。年俸は最高で3000万円ほどと推定されますが、所属していた近鉄がケチで有名だったので、かなり損しているはずです。今ならば年俸1億円以上は確実にもらえていたことでしょう。

栗橋茂の野球解説のほか飲食経営も!独身の理由は「出会いのチャンスを逸した」ため?

栗橋茂の野球解説のほか飲食経営も!生解説や「10・19」裏話も聞ける!

現役を引退した栗橋茂は、指導者になることもなく、野球解説者として活動しています。軽妙でユーモアに富んだ語り口などもあって、関西地区では、タレントとしてバラエティ番組にも引っ張りだこでした。しかし、野球解説だけではなかなか食べていけないのが実情で、副業としてスナックを経営しています。

そんな栗橋茂の店の名前は「しゃむすん」。かつての近鉄のホームグラウンドだった藤井寺球場最寄りにあります。栗橋茂本人がカウンターに立つことも多く、野球シーズン真っ盛りには、テレビ中継を見ながら栗橋茂の生解説も楽しめるとか。時には、伝説の死闘「10・19」(1988年10月19日ロッテ戦ダブルヘッダー)の裏話も聞けるなど、野球ファンが集うには最高の場所です。

「しゃむすん」のカウンター内の壁には、近鉄選手や演歌歌手のサイン色紙が並び、現役当時の帽子やヘルメット、ポスターなどの懐かしい品にもお目に掛かれます。しかし、残念ながら肝心のユニフォームは少ないようです。ユニフォームにはこだわりがなかった栗橋茂は、現役を引退した時にロッカールームに置き去りにしてきたとか。少し残念な話ですが、元プロ野球選手とは思えない気さくな人柄は評判上々です。

栗橋茂が独身の理由は「出会いのチャンスを逸した」ため?

60代半ばも過ぎた栗橋茂は、いまだに独身を通しています。「独身にこだわっている」というよりは、いい女性と出会いのチャンスを逸したまま現在に至るというのが理由でしょうか。現役時代から女性からの人気もあり、実際にバレンタインデーにプレゼントされたチョコレートの数がチームでも5位以内だったというエピソードもある栗橋茂。しかも、それは現役最後のシーズンの話です。

女性関係も派手だったそうですし、いかに栗橋茂がモテ男かがよく分かります。好きな女性のタイプは、「週刊ベースボール」の選手名鑑によれば、女優の八千草薫。まさに和風美人の代名詞的存在で、おっとりした良妻賢母役のイメージが強い大女優です。そんな栗橋茂の両親は、「とにかく早く結婚して家庭を持ってほしい」と願っていたと言い、母親がテレビの特番のインタビューで、「今も息子が独身で、自分と亡くなった夫にとって心残りだ」と答えています。隣にいた栗橋茂も、これには苦笑いするしかなかったそうです。

栗橋茂が語る破天荒な武勇伝とは?伝説の「漁師と乱闘」事件の「漁師たちが殴り込み」はなかった?

個性派軍団で知られた近鉄の歴代選手の中でも、数々の武勇伝で名を馳せた栗橋茂がプロ入り当初に驚かされたのが、藤井寺球場での「焼肉事件」でした。外野を守っていたら、何とも香ばしいにおいが漂ってきます。「おーい、クリ!一緒に焼肉食わんか!」と呼ぶ声に振り返ってみれば、缶ビール片手にご機嫌なオッチャン連中が、七輪で焼肉の真っ最中。何とものどかな光景ですが、さすがにガードマンが来て強制撤収になりました。

栗橋茂の武勇伝でトップクラスに挙げられるのが「漁師と乱闘事件」です。近鉄がかつて春季キャンプを張っていた高知県宿毛市にある行きつけのスナックで、地元の漁師たちがチームメイトに絡んできたため、見かねて仲裁に入ると、漁師連が「なんだ!」と激高。「やってやろうじゃないか」と買ったケンカに、同席していたフロントスタッフまで加わって大乱闘になりました。

この翌日には、早くも「漁師たちが軽トラックに分乗して殴り込みに来た」と伝説化しましたが、栗橋茂によれば「それはなかった」そうです。「大暴れした」とも語り継がれていますが、事実は違っていて、「栗さんはここへ入っといて」とトイレに閉じ込められたと言います。それで、通常ならば仲裁に入るはずのフロントが大暴れしたのですから、いかに当時の近鉄が、血の気の多い選手たちだったか推して知るべしというものでしょう。

もう1つ、当時の近鉄の血気盛んさを示すエピソードが「披露宴事件」です。奈良でのオープン戦が雨天中止になり、宿舎のホテルで和服の女性に「風呂はどこでしょう」と尋ねたら、真っ赤になって立ち去ったとか。その後、ウロウロしていると、いきなり酔っぱらいが「オイ、人の女房を風呂に誘うとは何考えとんや」と激怒。

栗橋茂がホテルの仲居さんと思って尋ねた女性は、宴会場で行われていた結婚披露宴の出席者で、その酔っぱらいの嫁さんだったことが判明します。タイミングが悪いことに、チームメイトが風呂上がりのラフな格好で宴席をのぞいていたため、「近鉄は不謹慎な連中や」と怒り心頭モードのその酔っ払い。

そうとは知らない栗橋茂が「何を!」と突き飛ばしたら、それを境に宴席の出席者たちも加わって大乱闘に発展し、コーチが仲裁に入る大騒ぎになりました。
血気盛んなプロ野球選手がひしめいていた時代、その最後のメンバーが栗橋茂だったのかも知れません。

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