三遊亭円楽、六代目がもくろむ三遊亭円楽一門会の今後!落語芸術協会との和解は?
三遊亭円楽、5代目圓楽の落語芸術協会分裂騒動とは?
落語芸術協会分裂騒動とは、1978年に当時の協会長、柳家小さんの真打ち大量昇進に反対した前会長で同協会の顧問だった三遊亭圓生が脱退し、新団体「落語三遊協会」を設立した事件です。
そもそも、協会長だった三遊亭圓生時代の真打ち基準は、それまでよりも厳しく設定してあり、昇進できるのはほんの僅かでした。それに不満を抱いていた柳家小さんは、協会長に就任したと同時に新理事として5代目三遊亭圓楽や7代目立川談志を起用します。
柳家小さんが会長に就任後、二つ目(真打ちの手前)を10年以上務める者が40人まで膨れ上がり、若手の不満が募っている現状を見かねた5代目圓楽が大量昇進を進言。
1972年の理事会でこの案は可決されましたが、「安易に昇進させてはいけない」と三遊亭圓生が猛反発、落語芸術協会から脱退したのです。三遊亭圓生は単独で脱退するつもりだったのですが、「師匠が辞めるのなら、私も辞めます」と大量昇進を提言した5代目圓楽も脱退してしまいます。
三遊亭円楽、5代目の目論みと騒動後の和解は?6代目と円楽一門会の今後
矛盾ともいえる圓楽の決断でしたが、圓楽が脱退したのには理由がありました。それは立川談志の「落語協会と落語芸術協会、そして第三の団体で一カ月のうち十日ずつ寄席を担当する」という案に賛同したからです。
結果的にこの目論みは落語協会や落語芸術協会からは受け入れてもらえず、第三の団体「落語三遊協会」は圓生と圓楽一門だけの発足になりました。おまけに寄席からは締め出され、公民館やホールのみの公演や余興しか出来なくなってしまいます。
1979年、心労が祟った圓生が心筋梗塞で他界。重鎮を失った「落語三遊協会」は解散に追い込まれました。残された門下は圓生夫人の計らいで落語協会に復帰しましたが、圓楽だけはこれを拒否して一門弟子と共に独自で「大日本落語すみれ会」を立ち上げます。
これは後に「円楽一門会」と名を替え、圓楽の一周忌には、6代目三遊亭円楽から一門会の落語芸術協会への合流の申し入れが歌丸師匠を介して出されましたが、叶うことなく否決されました。ちなみに「円楽一門会」は「五代目圓楽一門会」と改名する方向にあるそうです。
三遊亭円楽、息子の声優評価は?伊集院光と決断した理由とは?
三遊亭円楽の息子が声優?仕事の評価は?
6代目三遊亭円楽の息子、会一太郎さんは落語家で声優という珍しい経歴の持ち主です。2008年に声優養成所の代表格、青二塾東京校を卒業。翌年円楽一門会に弟子入りし、落語家としての名称は三遊亭一太郎と言います。
現在、青二プロダクションに所属。もとは落語家志望だった一太郎さんですが、5代目圓楽師匠から「落語以外のいろいろなことをやった方がいい。メディアに出るというのは大変だから」と助言され、大のゲーマーだったこともあり、ゲームのキャラクターの声を演じたいと考え声優を目指したそうです。
声優養成所を卒業後は、念願だった人気ゲームシリーズ・ペルソナのキャラクターCD「ペルソナ3vol.5」の不良役でデビューします。また、本業?の落語家を生かしてアニメイト「声優で落語くじ」というCDドラマでは「八方亭美人」小畑亮介役を演じ、監督として大先輩の声優陣に落語の演じ方を伝授するなど、声優としての評価も上がっています。
仕事はゲーム系が中心ですが、テレビアニメ「ちびまるこちゃん」で山口五郎役や海外ドラマの吹き替え、歴史や紀行のナレーションなど、幅広く活躍中です。
三遊亭円楽、伊集院光と決別した理由 今の関係は?
伊集院光さんと言えば、ウンチクの幅広さと機転の利いたコメントでクイズやバラエティ番組で大活躍のタレントです。しかし実は伊集院光さん、二十年ほど前に不登校を心配した父親の勧めで5代目圓楽に入門。6代目の弟子となり、三遊亭楽大の名称で落語家としての活動を始めました。
『笑点』の若手大喜利のレギュラーになるなど将来を期待された落語家でしたが、兄弟子に誘われラジオのオーディションを受けたところ、何と『オールナイトニッポン』のパーソナリティに起用されることに。師匠に内緒だったので、芸名「伊集院光」を名乗って仕事を始めましたが、すぐにバレてしまい、圓楽一門で大問題になってしまいます。
意外にも6代目は伊集院光を擁護し、結果的に破門ではなく、自主廃業という形をとらせました。2003年には自らの一門会に出演させ、身内として付き合いを続けています。ですから、今でも伊集院は6代目円楽を「師匠」としてリスペクトしているのです。
三遊亭円楽、5代目・6代目圓楽はよかったねと言われたい
6代目三遊亭円楽は1950年2月8日生まれ。東京都墨田区も出身です。青山大学法学部を卒業していますが、高校時代は就職志望でした。それが『蛍雪時代』に掲載されていた青山大学の落研部紹介を読んで「あ!ここに行こう」と即断したそうです。
在学中に縁あって5代目圓楽の鞄持ちを始め、あるとき5代目から「卒業後はどうするのかい?」と聞かれた6代目は「まだ決めていません」「なら、うちにおいで」その言葉がきっかけで落語家の道に入ることに。それまで何をやったらいいのか分からなかった6代目は、5代目の言葉を聞いて「目の前に真っ直ぐなレールが見えた」と表現しています。
挨拶に来た6代目の父親に「色々と見てきましたが、この子なら何とかなります」そう答えた5代目。その頃から6代目には人を気遣い、目配りの出来る能力が備わっていたようです。落語芸術協会分裂騒動で圓生、5代目と共に脱退。苦労しながら気配り目配りで独自の活躍の場を広げてきた6代目円楽師匠。
先代の死去という最大の試練と悲しみを乗り越え、襲名の際は「圓楽の名称は5代目三遊亭圓楽が大きくしたもの。だから5代目・6代目はよかったねと言われるように精進します」と語りました。先代の熱い想いを受け継いだ6代目圓楽師匠、今後のご活躍を期待しています!