伊藤博文は日本国憲法の父!読み方は?暗殺者は別にいた!?

明治時代、新しい日本を作るために粉骨砕身した伊藤博文。吉田松陰の松下村塾に学び、激動の幕末には尊王攘夷を掲げて奔走。明治維新後は、薩長土肥出身者が軍や政府の要職を独占するなか、着実に政治家としての力を蓄えていきました。

ヨーロッパの先進国を外遊し、日本の文明に大きな革新をもたらした岩倉使節団の副使、初代兵庫県知事などの要職を務めた伊藤博文は、今の日本の礎となっている大日本帝国憲法の草案を中心となって作り上げるという大役を果たしました。また、初代・第5代・第7代・第10代と四度にわたり内閣総理大臣を務め、枢密院(天皇の諮問機関)の初代議長、国家の重要事項を天皇に進言する役割を担う元老など、日本の中軸となる重要な職務を歴任したことでも知られています。

伊藤博文が憲法とともに作った新しい日本

現在の山口県にあたる長州藩の出身で、尊王攘夷実現のため積極的に活動した伊藤博文。1863年には22歳でイギリスへ1年間留学し、英語を学びながら海外の文化に触れ、見識を広めていきました。この留学により英語が堪能になった伊藤博文は、同じく尊王攘夷運動に参加していた高杉晋作の通訳も務めています。

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そして1868年2月、備前藩士とフランス人水兵が諍いを起こし、銃撃戦に発展した神戸事件、ならびにその翌月、土佐藩士がフランス人水兵を死傷させた堺事件において、伊藤博文は海外留学で身に着けた英語力を活かして事件解決の大きな力となります。これを機に出世の道が開け、明治維新後は工部卿(明治時代の官庁・工部省長官)、宮内卿(現宮内庁長官)、大蔵少輔(大蔵省次官)といった官庁の要職を務めています。

伊藤博文が日本初の内閣総理大臣となったのは1885年、今から約130年前です。当時の日本政府に属していたのは、薩長土肥(薩摩・長州・土佐藩・備前藩)出身者のみで、とりわけ薩摩・長州藩の出身者が力を持っていました。

国会を開き、日本という国を作っていくにあたり、伊藤博文がまず考えたのが憲法を制定すること。そのためには海外諸国が定めている憲法はどんなものかを調べる必要がありました。1882年、各国の憲法研究のためにヨーロッパへ渡った伊藤博文は、1年2ヶ月近くの期間をかけてイギリスやドイツをまわりその国の歴史を調べ、日本に最も適した憲法体制を布くのはどの国なのかを慎重に検討します。結果、日本の憲法起草の参考にしたのは、ドイツ帝国の憲法でした。

調査を終えて1883年に帰国した伊藤博文は、まず天皇を助けるための機関となる内閣制度を最初に整えました。この内閣制度の創設には、伊藤博文らが渡航先で学んだヨーロッパ諸国の行政や歴史法学が活かされることになります。

そして1885年、伊藤博文は初代内閣総理大臣に任命され、満を持して日本の憲法を作る作業に着手。4年という歳月をかけ、憲法をまとめていった伊藤博文の尽力により「大日本帝国憲法」が正式に発布されたのは、1889年2月11日のことでした。

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伊藤博文の死因は?暗殺の背景に隠された真実

日本初の内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法のとりまとめに貢献した伊藤博文。そんな偉大な功績を遺した彼の最期は、なんとも突然なものでした。乗っていた電車から降りた瞬間を狙われ、暗殺されてしまったのです。

伊藤博文が暗殺されたのは、中国竜江省にあるハルビン駅。朝鮮民族主義活動家だった朝鮮人・安重根(アン・ジュングン)が犯人だと報じられました。韓国を支配する目的で設置された初代韓国統監に伊藤博文が就任したことから、進行する韓国併合計画を案じ、暗殺に踏み切ったされています。

1909年10月26日、ロシアの財務大臣ウラジーミル・ココツェフと会談するため、中国満州の中心地にあるハルビン駅へやって来た伊藤博文。狙われたのは、ホームに整列したロシア兵の閲兵を受けてもらいたいというココツェフ蔵相の依頼を受けた伊藤博文がこれに応じ、日本側の列車から歓迎の席が用意されたロシア側の列車へ移る前に、ロシアの要人と挨拶を交わしていた時でした。

安重根はその場で逮捕されていますが、事件が起こった際、伊藤博文のすぐ後ろにいた室田義文(むろたよしあや)の逝去から4年を経た1942年に刊行された「室田義文翁譚」には、犯人は安重根ではないと書かれています。

安重根は整列したロシア兵に隠れるようにして、少しかがんだ体勢で発砲したことを室田義文が目撃しています。であれば伊藤博文の身体には下から上に向かって撃たれた跡が残るはずですが、実際は伊藤博文がいた場所よりも高い位置から斜め下に向けて撃ったような跡が残されていました。

また、伊藤博文の遺体に残っていた銃弾は安重根が使った短銃のものではなく、フランス製のカービン銃に使われる弾でした。カービン銃とは主に騎兵隊が使用する小銃で、短銃とは明らかに違います。

室田義文は駅二階の食堂から撃ったのが真犯人だと明言し、真相究明を求めましたが、国交先で起こった事件であったため、外交問題に発展することを案じた警察官僚によりその声は封じられ、黒幕がいたのかなど真相は闇の中です。

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千円札の肖像!伊藤博文の名言にあふれる男気

首相の歴任、大日本帝国憲法の制定など多数の功績により、1986年まで発行されていた千円札の肖像画に選ばれている伊藤博文ですが、最近は、名前の読み方が「ひろぶみ」なのか「ひろふみ」なのか分からないという声も聞かれます。正解は「ひろぶみ」ですが、「はくぶん」と読んでも間違いではないそう。これは昔の習慣に、高い位にある人の名を訓読みで呼ぶのは失礼だという考えがあったためです。

そんな伊藤博文も、歴代の偉人同様たくさんの名言を遺しています。

「いやしくも天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命懸けのことは始終ある。依頼心を起こしてはならぬ。自力でやれ」

「本当の愛国心とか勇気とかいうものは、肩をそびやかしたり、目を怒らしたりするようなものではない」

第二次伊藤内閣在任中に起こった日清戦争、そして第四次伊藤内閣退陣後に起こった日露戦争。いずれも、伊藤博文は積極的に相手国や周辺国と対話し、自らも足を運んで早期の終結に力を尽くしました。

また、衣食住や物に対する欲がなく、使用人が宅内外の掃除に手を抜いても意に介さないなど、細かいことを気にかけない豪快な性格であったとも言われています。国の中枢を動かす大役を数々担い、常に国家の安泰を考えていた伊藤博文には、自らの暮らしも含めた目先のことなど、取るに足らないことだったのかもしれません。

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