大仁田厚が電流爆破デスマッチでたびたび死去!?火傷は本物か?

大仁田厚が電流爆破デスマッチでたびたび死去!?火傷は本物か?

大仁田厚が電流爆破デスマッチで爆死?熱さみなぎるパフォーマンスは健在!

大仁田厚は、「涙のカリスマ」、「炎のカリスマ」の異名を取るプロレスラー。電流爆破デスマッチなど奇抜なプロレススタイルと、熱さみなぎるパフォーマンスはいまだに健在です。電流爆破デスマッチでは死去、いわゆる「爆死」で、スポーツ新聞の見出しとなることもたびたびの大仁田厚。2001年7月には第19回参議院選挙に比例区で出馬し、当選。2007年6月に政界引退するまでの間、議員活動も行っています。

さらに2010年2月の長崎県知事選挙にも出馬したものの、こちらは落選。なんとも破天荒な人生を歩んできている大仁田厚ですが、最近は、電流爆破デスマッチでリングに上がり続ける日々です。古傷のひざの具合も思わしくない中、スポーツ新聞の見出しにもたびたび「大仁田、爆死!」の文字が躍っています。爆死を重ね、満身創痍の大仁田厚を支えているのは、プロレスへの限りない愛情しかありません。

大仁田厚は、1957年10月25日生まれの58歳。長崎県長崎市出身で、1973年に全日本プロレス入りを果たし、ジャイアント馬場門下となります。1974年4月の後楽園ホール大会でデビューした大仁田厚は、1981年から海外で修業し、1982年にはNWAインターナショナル世界Jr.ヘビー級王座を奪取。武骨で闘志も露わなスタイルから「炎の稲妻」と呼ばれて人気者になりますが、左ひざの故障などがあり、1985年に現役引退しています。

一時は苦難の時期があった大仁田厚でしたが、1989年に新団体FMWを設立し、ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチを行うと一気にブレイク。その後も、川崎球場や西宮球場などの大会場で過激なデスマッチを演じ、テレビなどでも取り上げられて知名度を上げました。1999年にFMWを追放された後、大仁田厚は新日本プロレスへ参戦し、トップレスラーを相手に電流爆破デスマッチを実現させました。近年は爆破規模をパワーアップさせた「超花火プロレス」へシフトしています。

大仁田厚の無数の火傷は本物?火傷はデスマッチの過酷さの証明?

大仁田厚は、満身創痍を押してリングに上がり続ける毎日ですが、全身は無数の火傷だらけだといわれています。その火傷は本物なのでしょうか?電流爆破デスマッチ後に、自身のオフィシャルブログにアップされる火傷の写真は、デスマッチの過酷さをたしかに証明しています。火傷のレベルが全治2カ月、3カ月というのは、大仁田厚の場合、もう珍しくありません。ブログにアップされた写真の痛々しさから見ても、火傷は本物でしょう。

それだけでなく、有刺鉄線による裂傷も無数にある大仁田厚には、まさに満身創痍という表現しか見当たりません。そもそも、電流爆破デスマッチとは、有刺鉄線に電流を流し、設置した小型爆弾を爆発させるという演出です。それ以前には、燃える炎に囲まれて闘うファイヤー・デスマッチというスタイルもありました。日本ではFMWが初めて行ったのですが、火力などの事前確認がなされていなかったため、思った以上に火が燃え盛り、大火傷で入院した選手もいたという物騒なエピソードも。現在であれば大炎上間違いないですね。

最近は、有刺鉄線に灯油を染み込ませた布を巻きつけて点火するスタイルが取られ、いろいろな派生型も見られます。事前にリハーサルでチェックはしているのでしょうが、レスラーが危険にさらされた中で闘っているのは間違いないことです。そんな危険な環境のリングに、大仁田厚が上がり続ける原動力は、やはりプロレスラーとしての本能でしょうか。

大仁田厚と初代タイガーマスクの因縁対決!邪道プロレスの魅力とは?

大仁田厚と初代タイガーマスクとの因縁!対決に向けて執念を燃やす!

大仁田厚といえば、初代タイガーマスク(佐山聡)との因縁対決を避けては通れません。対照的な大仁田厚と初代タイガーマスクは、何かといえばぶつかり合う間柄です。その因縁は、大仁田厚の若き日にまでさかのぼります。1982年に NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座ベルトを奪取し、意気揚々と凱旋帰国した大仁田厚。

しかし、日本プロレス界では、初代タイガーマスクが飛ぶ鳥を落とす勢いでした。大仁田厚は、当時全日本プロレス所属でしたが、初代タイガーマスクはライバルの新日本プロレス所属ということもあり、何かにつけて比較され、対抗意識を燃やします。

初代タイガーマスクの華麗でアクロバティックな動きに対し、大仁田厚は彼本来の荒々しく男くさいスタイルを前面に押し出す点でも対照的だった2人。しかし、大仁田厚が一時現役引退していたこともあり、両者の対決は長らく実現しませんでした。

しかし、2001年7月の参議院選挙で大仁田厚が出馬した際、佐山聡も自由連合から出馬。両者の長年にわたる因縁を知るファンは、「場外乱闘勃発か?」と注目したものです。そんなファンをよそに、お互い出馬には全く触れず、大仁田厚だけが当選します。

そして歳月は経ち、本当の因縁の対決が実現したのが2012年6月。初代タイガーマスクに、デンジャラス・スペシャル・ランバージャックデスマッチで挑んだ大仁田厚でしたが、結果は敗北に終わりました。しかし、これで懲りない大仁田厚、今もなお、初代タイガーマスクとの対決に向けて、執念の炎を燃やし続けています。

大仁田厚の反則や流血も辞さない「邪道プロレス」の魅力!大仁田厚の熱いキャラも求心力に!

大仁田厚の代名詞ともなった「邪道プロレス」は、一時は、「大仁田信者」と呼ばれる熱狂的なファンがいたことでも知られています。しかし、人によっては「キワモノ」と断定する声があるのもまた事実です。ファンをとりこにする「邪道プロレス」とは、どこに魅力があるのでしょうか?大仁田厚がFMWを立ち上げた1989年当時は、プロレス本来の格闘を志向するUWFが席巻していました。

しかし、その正統派を至高とする風潮に真っ向から挑戦状をたたきつけたのが他ならぬ大仁田厚。「プロレスには反則も流血もある。何でもあってこそプロレスではないか!」と、ノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチを打ちだします。それまでの正統派から見れば、大仁田厚のスタイルは、まさに「邪道」。

しかし、その「邪道」が、それまでのプロレスに無関心な若年層の心をわしづかみにし、新たなファン開拓につながりました。奇抜な数々のデスマッチや派手なパフォーマンス、流血や反則も辞さない「邪道プロレス」は、その強烈な魅力でファンを引きつけたのです。それに加え、大仁田厚自身のほとばしる熱さが求心力となったのはいうまでもありません。大仁田厚の暑苦しいまでの魅力に取りつかれたファンは共感し、一緒に叫び、「大仁田信者」となっていきました。

大仁田厚「人生、あきらめるなってことを表現したい」とリングに上がり続ける!引退後の人生は「想像もつかないようなことをやってみせる」!

大仁田厚58歳、還暦近い年齢になっても、その熱い魂は健在です。満身創痍になってもなおリングに上がり続ける男の中には、どのような思いがあるのでしょうか?そのバックボーンには、現役引退と復帰をたびたび繰り返した人生があったようです。

NWAインターナショナル世界Jr.ヘビー級王座を獲得しながらも、故障でひとたび引退。タレントや肉体労働で何とか食べていた時期もありましたが、プロレスへの強い思いが絶ち切れない大仁田厚は、リングへと舞い戻ります。そこから導き出されたのは「人生、あきらめるなってことを表現したい」という熱い思い。

いろいろな失敗も経験していく中で、大仁田厚を支えたのが、「たった一度の人生、失敗なんていくらでもある。やらないより、俺はやることを選ぶ」という哲学。地方から足を運ぶ熱心なファンの前では、「ほんのわずかでも成功の可能性があると思えば、それに賭けるべきだというところを見せたい」と熱く語っています。

そんな大仁田厚ですが、過去の借金問題に見舞われています。借金の相手先は、先日亡くなった鳩山邦夫元総務大臣。週刊誌報道によれば、大仁田厚が2010年の長崎県知事選挙出馬した際、選挙費用として1700万円を銀行から借りましたが返済できず、その債権が移った先が鳩山邦夫。鳩山家として回収できたのは、差し押さえた40万円弱で、大仁田厚の債務は、利息も含めると2000万円を超す金額になっているといわれています。

裁判所からも支払命令が出されたのに、大仁田厚は返済の動きを見せず、ぷっつりと連絡を絶っているとか。週刊誌の報道はやや一方的とも思え、にわかに信じがたいものです。「俺は鳩山さんに本当にかわいがってもらいましたよ。本当にお世話になりました」と語る大仁田厚、恩を仇で返すような真似はしないと信じたいところですが、本当のところはどうなのでしょうか。

来年の還暦に引退するという大仁田厚が、その後の人生をどう送るかは全く想像がつきません。本人は、「想像もつかないようなことをやってみせるので、楽しみにしてほしい」と語るのみです。破天荒な生き方をしてきただけあって、還暦後も、他人には及びもつかないことにチャレンジしていくのではないでしょうか。

関連記事

ページ上部へ戻る