グスタフ・クリムトの「接吻」モデルは誰?代表作品は?過去最大の展覧会が話題に!

若くして芸術の才能を開花させたグスタフ・クリムト

オーストリアの画家、グスタフ・クリムトは1862年7月14日、オーストリア帝国のバウムガルテンで、彫刻師の父とミュージカルパフォーマーの母との間に生まれました。

1876年に博物館付属工芸学校へ入学したグスタフ・クリムトは、古典作品を基にした模写やデッサンを学びます。彼の2人の弟、エルンスト・クリムト、ゲオルク・クリムトも後に同校へ入学。エルンストは彫刻師、ゲオルクは彫金師となり、兄の作品を飾る額縁のデザインを手がけています。

グスタフ・クリムトは工芸学校で学びながら、友人と弟エルンストとともにデザインの請負を始め、1879年には劇場の装飾を中心に請負う「芸術家商会」を立ち上げます。

また、1886年から2年をかけてオーストリアのウィーンに建つブルク劇場の装飾を担当。芸術家商会の作品は高い評価を受け、功績を認められたグスタフ・クリムトは第一回皇帝賞、金功労十字賞を授与されています。この時、彼は28歳でした。

1891年にウィーン美術家組合(クンストラーハウス)に加入するなど、ウィーンで芸術家としての地位を確立したグスタフ・クリムト。この後徐々に前衛的な芸術へとシフトしていき、モダンデザインを世に出すための活動に身を投じることとなります。

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グスタフ・クリムトが結成したウィーン分離派とは?

1894年にドイツ語圏の国で最も由緒あるウィーン大学の大講堂に設置する天井画を任されたグスタフ・クリムトは、「学部の絵」と総称される「哲学」「医学」「法学」の三部作を制作します。しかし依頼者のイメージとは相反するものであったため、これらの作品は長く論争の的となりました。

この論争の最中、グスタフ・クリムトは1897年にウィーン美術家組合を脱退。志を同じくする芸術家仲間とウィーン分離派(正式名称:オーストリア造形芸術家協会)を結成し、初代会長に就任します。ウィーン分離派は美術家組合の古典的芸術を重んじる姿勢を嫌い、「時代には芸術を、芸術には自由を」とのモットーを掲げてモダンな美術作品を発表。展覧会も積極的に開催し、新たな芸術表現を追求しました。

グスタフ・クリムトは独身貴族だった?

グスタフ・クリムトは風景画も多く描いていますが、彼の作風として最も知られるのは、妊婦や裸婦をモデルとした妖艶で官能的な作品です。生涯独身を貫きながらも、モデルを務めた多くの女性と愛人関係になっていたというグスタフ・クリムト。そんな彼にとって、ただ一人特別な存在となった女性が、エミーリエ・フレーゲでした。

エミーリエ・フレーゲは、1892年に死去した弟・エルンストの妻の妹です。グスタフ・クリムトは1918年2月6日、当時流行していたスペインかぜから発症した肺炎と脳卒中により55歳で生涯を閉じていますが、最期に残した言葉は「エミーリエを呼んでくれ」でした。

グスタフ・クリムトが世を去った後、誰とも結婚せず独身を貫いたエミーリエ・フレーゲ。結婚こそしていませんが、2人の強い絆が感じられます。

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グスタフ・クリムトが“黄金の時代”に遺した作品は?

ウィーン分離派を結成した頃から、グスタフ・クリムトはアール・ヌーヴォーの流れを受けた作品が増えていきました。19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパで広まったアール・ヌーヴォーは、植物などをモチーフに曲線を取り入れたエレガントな作風が特徴です。

アール・ヌーヴォーを取り入れたグスタフ・クリムトの作品で代表作といわれるのは、1907年から1908年にかけて、180cm四方のキャンバスに油彩で描いた「接吻」です。金箔が大胆に使われたこの作品は、グスタフ・クリムトと恋人のエミーリエ・フレーゲをモデルに描いたものとされています。

グスタフ・クリムトの作品には、「接吻」の他にも「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」「ユディトI」「パラス・アテナ」「ベートーヴェン・フリーズ」など、彼の代表作とされる多くの作品で金箔がふんだんに使用されています。これは、日本の尾形光琳に代表される琳派や、浮世絵の影響を受けたものと考えられています。

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グスタフ・クリムトに弟子はいる?

グスタフ・クリムトの弟子として挙げられるのは、オーストリアの画家、エゴン・シーレです。彼は、グスタフ・クリムトが芸術を学んだ工芸学校の後輩にあたります。

グスタフ・クリムトと同様、古典芸術を重んじる風潮に疑問を感じたエゴン・シーレは、弟子入りを志願。熱意にあふれる若き画家の才能を高く評価したグスタフ・クリムトは、モデル料を立替えたり、新たな芸術を追及して設立されたウィーン工房へ入会できるよう推薦したりと、支援を惜しみませんでした。

グスタフ・クリムトの支援に助けられたエゴン・シーレは、後に新たなる芸術の集いを意味する「Neukunstgruppe(ノイ・クンスト・グルッペ)」を画家仲間と設立。ゴッホやムンクの影響も受けながら独自の作風を確立していきました。

そんなエゴン・シーレは、グスタフ・クリムトの死去から約9ヶ月後の1918年10月31日、3日前に世を去った妻エーディトの後を追うように、スペインかぜで28年の短い生涯を閉じています。

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過去最大級!グスタフ・クリムト展が話題!

ウィーン世紀末を代表する画家・グスタフ・クリムトの没後100年を記念して、2019年4月23日から東京都美術館で「クリムト展 ウィーンと日本1900」が開催されました。

この展覧会には、グスタフ・クリムトの初期の作品から代表作、風景画など約20点にも及ぶ油彩画が展示され、日本国内でこれまでに開催されたグスタフ・クリムトの展覧会では過去最大の規模となります。

東京都美術館での開催は終了しましたが、7月23日からは愛知県の豊田市美術館で、10月14日まで展示が行われます。甘美かつ絢爛なグスタフ・クリムトの作品は日本にもファンが多く、東京会場と同様、愛知会場にも多くの美術ファンが訪れることが予想されます。

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