尾形光琳とクリムト「紅白梅図屏風」で繋がれた芸術!今、「琳派」がアツい!

尾形光琳とクリムト「紅白梅図屏風」で繋がれた芸術!今、「琳派」がアツい!

尾形光琳とクリムト「紅白梅図屏風」で繋がれた芸術!受け継がれる「琳派」

尾形光琳は「琳派」と呼ばれる装飾画派を発展させた、江戸時代中期の絵師。その200年後、オーストリアの画家・クリムトは、1873年のウィーン万博に出展された尾形光琳晩年の傑作「紅白梅図屏風」などの屏風画などに強い衝撃を受け、日本流の金箔技術を習得し、油絵と融合させる独特の絵画技法を確立したと言われています。

確かに、クリムトの「接吻」「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像画」からも分かるように、金箔を使用した装飾的かつ平面的な画法は、「琳派」の屏風を彷彿させます。そして、その画面に見られる背景や衣装からも、クリムトが相当「琳派」に傾倒していることが分かります。尾形光琳が「紅白梅図屏風」で描いた、中央を昇りゆく金箔の輪郭を持つ水流。クリムトが描く衣装の構図は、その宇宙をも感じさせる水流とよく似ているのです。

また、クリムトが描く衣装の内部に描きこまれた模様は、琳派が得意とする渦巻き、流水、藤、唐草などの文様からインスピレーションを受けたとされています。「紅白梅図屏風」が200年後に繋いだ芸術。クリムトは西洋における「琳派」の継承者と言ってしまっていいのかもしれません。

尾形光琳とクリムト「紅白梅図屏風」で繋がれた芸術!今年は「琳派」400周年!

尾形光琳の「琳」の字をとって名づけられた「琳派」。俵屋宗達を源流とし、その100年後に絵師となった尾形光琳によって大きく発展しました。2015年は”琳派400周年”ということで、日本中でさまざまな展覧会やイベントが催され、今、日本中が湧きたっています。クリムトなどの多くの海外芸術家に影響を与えた「琳派」の美術センスは、現代絵画のみならず、グラッフィックデザインやファッションにもその技法が用いられるほど。

特に「琳派」の中でも、尾形光琳のデザインセンスは時代を超えて、世界美術史上最も卓越しているのではないでしょうか。一見アンバランスな写実と抽象を対立させつつ呼応させ、完璧な”老い”感じさせる「紅白梅図屏風」の構図もさることながら、初期作品「燕子花図屏風」には、現代の多くの若者が”オシャレ、カッコイイ”と触発されています。その絶妙な静と動が調和する大胆なリズムと、浮かび上がる燕子花のモチーフは、”琳派400周年”で湧く京都・二条城で開催中の「アートアクアリウム」の「リンパリウム」でも大変注目を集めているようです。

尾形光琳は呉服商「雁金屋」を潰した放蕩息子!恋人、妻への見栄で画家に?

尾形光琳は呉服商「雁金屋」を潰した放蕩息子!散財、女グセも悪かった!

尾形光琳は、1658年、京都の呉服商「雁金屋」の次男として生まれました。呉服商「雁金屋」は、淀殿、徳川家康など、当代一流の人物を顧客として抱えていた大呉服商。そんな裕福な家庭に生まれ、次男坊であることから跡目を継ぐ重圧もなかった尾形光琳は、少年時代から能楽、茶道、日本文学などに親しみます。

30歳になっても遊び癖の直らない尾形光琳は、父の死後に破綻しかけていた呉服商「雁金屋」を継いだ長男をよそに、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たして遊興三昧。女性関係も派手だった尾形光琳は、30代でそれぞれ違う女性との間に4人の子供だってもうけています。

そして35歳の頃には、金を貸していた大名に債権を踏み倒され、真面目な弟・乾山に借金をするという体たらく。ついに尾形光琳は、呉服商「雁金屋」を破産させてしまったのです。この自由奔放さが尾形光琳の芸術センスを育てたことには違いありませんが、それにしても何という放蕩息子でしょうか。

尾形光琳は恋人、妻への見栄で画家になるも、遊興癖が再発!

尾形光琳が画家として本格的に活動したのは40歳過ぎから59歳で逝去するまでの約15年間と言われています。なんとも意外な話です。呉服商「雁金屋」を食い潰し、4人の子供のうちの1人の母親から告訴されて慰謝料を払うはめになってしまった尾形光琳。彼が画家になる決心をしたのは、弟・乾山に「生き方を変えないと、兄のためにならない」と見離されたためでした。そして尾形光琳は、初めて正式に恋人と結婚し、家庭を持ちました。妻への見栄という背水の陣を引き、狩野派の画法を習って40歳で画家デビューした尾形光琳。俵屋宗達を心の師と仰いで「光琳デザイン」を形作り、43歳で、画家として名誉ある「法橋」の位に就いたのは良かったのですが、染みついた遊興癖は手放せません。絵が売れ始めた途端に遊び倒して借金を作り、自宅を抵当に取られた尾形光琳は、45歳の時にパトロンを頼って江戸へ移るはめになってしまったのです。尾形光琳の芸術家たる性分は、恋人や妻への見栄なんかで抑えられるものではなかったのでしょう。

尾形光琳の屏風に見る遊興癖と弟の存在!「琳派」は現代にマッチする

尾形光琳は、かつては豪勢に暮らしていたにもかかわらず、江戸では絵の注文を取るために家屋敷に頭を下げて回り、依頼通りの絵を描く不本意な生活を強いられました。尾形光琳は、50歳で「貧乏でも望む絵を描きたい」と気付いて帰郷していますが、この帰郷には、陶芸家として苦労していた弟・乾山を助けたいという想いもあったそうです。

物静かに読書を好み、孤独を愛した地道な弟・乾山がいたからこそ、尾形光琳は、筆で身を立てていく決心をしたのですから。金箔で彩られた大画面の中に粛々と浮かび上がる静かな世界。「紅白梅図屏風」「燕子花図屏風」などの尾形光琳の屏風は、絢爛豪華さとシンプルというミスマッチが絶妙のバランスを成しています。あの中には、尾形光琳自身が生きてきたきらびやかな世界と、静粛な弟の姿があるような気がしてなりません。

ただ、優れたデザインセンス以上に、「琳派」の動と静は、喧騒の中で生きる現代人の孤独の感覚に哲学的にも訴えてくるのです。尾形光琳のたった15年の活動で、より具体化されて受けつがれてきた「琳派」も今年で400年。その画風は、クリムトなどの海外画家によって新たな風になり、日本でもさらなる進化を続けています。

11月京都清水寺では、12月18日に全世界公開を控えた「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」の世界観を、「琳派」の代表作「風神雷神図」をオマージュして表現した作品が披露される予定。400年の節目を迎えた「琳派」と世界的作品のコラボで、日本人のみならず、海外から訪れる観光客に新たなウェーブを起こすことになるでしょう。

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