2020年7月8日 更新
亀田誠治は椎名林檎が師匠と崇めるベーシスト!東京事変はバンドマンの憧れ!
◆出身:アメリカ合衆国・ニューヨーク州
◆所属事務所:ハーフトーンミュージック誠屋
◆レーベル:EMIミュージック・ジャパン
亀田誠治の苦い下積み時代!
亀田誠治(かめだせいじ)は、1964年6月3日生まれのミュージシャン。ベーシストであり、多くのアーティストの楽曲に関わる編曲家や音楽プロデューサーとしても活躍しています。
ニューヨーク生まれで、幼少期からクラシックギターとピアノを学び始めた亀田誠治は、14歳からベースも始めました。帰国後、早稲田大学文学部在学中に、ピアニスト兼ボーカリストの吉中美樹との音楽ユニット「Miki-Pooh」を結成。就職活動はせずに作曲に没頭し、デモテープを作ってはレコード会社へ送り、バンドコンテストに応募したりするなど、音楽業界へアピールを精力的に続ける日々を送りました。
しかし、デビューはおろか、亀田誠治自身はお払い箱にされてしまう始末。ディレクターからは、いかにも社交辞令という感じで「勉強がてらスタジオにおいで」と言われますが、「妙に楽天的なところがあった」ことから、毎日レコーディングスタジオに通うように。
そこでプロの仕事を見て学ぶうちに「この譜面ちょっと書いてくれない?」「次のデモテープは亀ちゃん、作ってみない?」と、徐々に仕事を任されるようになりました。1989年、ついに、アイドルグループCoCoのシングル曲に亀田誠治の楽曲が起用されます。同時にアレンジも任されたことから、編曲家としての活動も開始しました。
亀田誠治「椎名林檎が崇めるベーシスト」の参加する東京事変はバンドマン憧れの的!
亀田誠治は1999年から、編曲家兼ベーシストとして椎名林檎と一緒に仕事をしてきました。当時レコード会社が扱いに迷ったという、感性豊かな椎名林檎の音楽性を守って世に送り出し、絶大な信頼を得ていきます。2006年の朝日新聞のインタビューで、椎名林檎は、「これまで気を付けてきたことは『ぶれずにいること』だけ。初めて『お前は変わるな』と言ってくれたのが亀田誠治さん」とコメントしていました。
2人の音楽的な関係がさらに深まったのは2003年から。当時、シンガーソングライターとして活躍していた椎名林檎は、引退が頭をよぎるほど音楽活動のモチベーションを見失っていました。そこで、「メンバーのために書き下ろすつもりで曲を書けば、創作意欲が湧くのではないか」と、自身のバックバンドだった「東京事変」に自らがボーカルとして加わることで、正式にバンドデビューすることにします。
以後、亀田誠治がベーシストを務めるバンド東京事変は、2012年まで活動しました。今や、ベーシストとしても人間としても椎名林檎から慕われ、「師匠」と呼ばれる間柄となった亀田誠治。彼はその後、メンバーがたびたび入れ替わる東京事変の中で、ベーシストだけでなく、編曲家や作曲家としても柔軟に対応し、バンドの要となっていきました。
アマチュアバンドからプロという道ではなく、キャリアも実力も兼ね備えたプロ同士が結成した究極のバンドが東京事変。椎名林檎が師匠と崇める亀田誠治以外にも、2代目ギターリストの浮雲(東京事変以外は「長岡亮介」名義で活動)は、他のアーティストのレコーディングにも多数参加しています。大ヒットしたドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の主題歌で、星野源が歌う「恋」にも参加していました。
解散から8年が経った2020年1月1日、東京事変は「再生」を発表。新型コロナウイルスの影響で予定していたツアーは東京公演以降、中止となりましたが、4月8日に新作EP「ニュース」をリリースしており、今後の活動も注目されています。
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亀田誠治の凄さの陰には両親による「褒められる教育」あり!結婚した妻や息子は?
亀田誠治の凄さは両親の「褒める」「受け入れる」態度から育まれた?
亀田誠治は音楽プロデューサーとして、作曲家として、ベーシストとして、J-POP界において数々の素晴らしい功績を残してきました。スピッツやGLAY、いきものがかりなど手掛けたアーティストの数は、200~300にも上ると言われています。
アーティストは個性が強く、譲れないものも多いため、彼らの望むものを形に仕上げていく過程には心労が絶えません。椎名林檎を始め、そんなアーティストたちを相手に、数々のヒット曲を世に送り出してきた亀田誠治。彼は、アーティストの意見を頭ごなしに否定することはせず、必ず「まず受け入れる」ことから始めます。
この忍耐強く、懐の深い人柄の秘密は、「両親からよく褒められたのを覚えている」と語る亀田誠治の生育環境にあるのかもしれません。亀田誠治が大学生の時、自宅のクローゼットを壊してお手製DJブースを作ったときも、母親は怒るどころか「それ、凄いね!」と褒めてくれたとか。中野サンプラザのステージに両親を招いたところ、父親からの手紙にあったのが「今日の舞台、素晴らしかった」という誉め言葉に続けて、「ベースという楽器が何の役割を果たしているか分からない。明日からギターに変更しなさい」。全く理解できなくても、まずは誉めるという姿勢を貫いています。両親の温かな後押しと「褒められる教育」により、亀田誠治の柔軟さや素直さ、他者を受容する余裕が育まれていったのでしょう。
亀田誠治が結婚した妻と息子について知りたい!
亀田誠治の結婚相手は、1961年8月26日生まれで宮城県出身のポップス&アニメソング歌手の下成佐登子(しもなりさとこ)です。1980年代に「ハウス世界名作劇場」枠で放送されたアニメ「小公女セーラ」のオープニングテーマとエンディングテーマを歌っていたことでも知られています。
幼少期からオルガンとピアノを習い、14歳の頃には作曲もしたという下成佐登子。2人には、温かな夫婦仲を感じさせるエピソードがあります。2013年の映画「カノジョは嘘を愛しすぎてる」で音楽プロデューサーを務めた亀田誠治。作品の試写会には、亀田誠治の妻も同席していました。映画の終盤で、主人公の男女の想いが交錯するバラード「ちっぽけな愛のうた」を聴いた亀田誠治の妻は、「これ、私のために書いたんでしょ」と断言。聴く側が、曲が描き出す世界を自分の人生に置き換えることは、作り手としては「してやったり」ですが、さすがに亀田誠治もビックリしたそうです。
そんな亀田誠治のツイッターや公式ブログには、社会人となった息子とのエピソードも登場しています。ある日、長男が自分の携帯と亀田誠治の携帯の両方を持って出勤してしまったそう。そこで亀田誠治が慌てて車で長男の勤める会社へ行き、無事に携帯を回収したとか。どこの家庭でもありそうな、ほのぼのとしたプライベートの一面も披露しています。
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亀田誠治の凄さはその奏法の柔軟性にあり!凄さが分かる曲は?音楽業界を支える存在!
亀田誠治の凄さはその奏法の柔軟性にあり!
亀田誠治のベーシストとしての凄さは、そのアーティスト、その楽曲ごとに、ベースがどうあるべきかを的確に判断して、奏法を柔軟に変化させることです。東京事変の音楽スタイルは、メロディーと伴奏の関係が明確なホモフォニー音楽ではなく、ほとんどがボーカルやギターなどのパートが対等で、複数のメロディーが合わさってハーモニーを生み出すポリフォニー音楽に通じています。
2007年7月に発表されたシングル「OSCA」は、この特徴がわかりやすく表れた曲と言えるでしょう。あえてボーカルによるメロディーとその他楽器による伴奏を明確に分けないため、楽曲中の亀田誠治のベースはスライドなどを多用し、うねるような派手なフレーズが多く見られます。
この東京事変の音楽スタイルの対極にあるのが、自身が音楽プロデュースを手掛けた映画「カノジョは嘘を愛しすぎてる」内で大原櫻子が歌う楽曲です。ホモフォニー音楽のJ-POPで、大原櫻子の声質を最重視しています。この「楽曲によって柔軟に変化させる」亀田誠治のベースラインのテクニックの凄さは、音楽への深い解釈によって生み出されるものなのでしょう。
亀田誠治が日比谷音楽祭中止に伴いクラファン設立!
亀田誠治は2020年に新型コロナウイルスの感染拡大により開催中止となった日比谷音楽祭のスタッフのために、実行委員長として援助金を払うクラウドファンディングを設立し、ツイッターでも積極的に寄付金を呼びかけていました。その甲斐あってか、無事に目標額を達成。仕事を失ったスタッフへのサポートができたようです。スタッフが支えてくれるからこそみんなが日比谷音楽祭で楽しむことができるという、その気持ちに動かされた人々はたくさんいたようです。
自身の利益のためではなく、音楽に携わるスタッフ一人一人の事情を考えてこういった呼びかけをするあたり、さすが日本の音楽業界を支える重鎮と言わざるを得ません。日本のトップミュージシャンたちも亀田誠治の考え方に賛同し、リモートで演奏している様子をYouTubeで無料配信するなど、亀田誠治のミュージシャンへの影響力は計り知れないものがあります。これからも日本の音楽業界をぐいぐいと引っ張って支えてほしいものです。
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