槙原寛己は巨人軍の元エース!完全試合の偉業達成するも「ここ一番で勝負弱い」?!

槙原寛己は巨人軍の元エース!完全試合の偉業達成するも「ここ一番で勝負弱い」?!

槙原寛己は巨人軍先発3本柱の一角!好調時はエースにふさわしい神がかりなピッチング!

槙原寛己(まきはらひろみ)は、読売ジャイアンツの元エース投手で、現在は野球解説者です。現役時代は、桑田真澄と斎藤雅樹とともに巨人軍の先発3本柱の一角として活躍し、史上15人目となる完全試合の偉業を達成したことでも知られています。

150キロ台の速球で鮮烈な印象を残し、1軍初登板初完封というこれ以上ないデビューを飾りました。しかし、獲得タイトルは新人王のみにとどまるなど、槙原寛己には、その活躍に比べるとどこか損しているイメージがあります。勝負どころで浴びた痛打が、「勝負弱い」と印象付けたことも否めません。とはいえ、好調な試合では、キレのいい球が面白いように決まり、手が付けられないピッチングを演じてのけたものです。

日本シリーズでは、強かった頃の西武ライオンズを手玉に取り、1980年代終盤の広島戦では、1点を争う投手戦を展開することも少なくありませんでした。調子が良い時はエースにふさわしいピッチングを見せましたが、肝心なところでのポカが多いという特徴があった槙原寛己。神がかり的な偉業を成し遂げながら、誰もが認めるエースに位置付けられなかったのは、そうした理由が大きいのでしょう。

槙原寛己は完全試合の偉業達成!その一方「バックスクリーン3連発」で勝負弱いイメージ定着?

完全試合という球史に残る偉大な仕事を達成した槙原寛己。その一方で、「ここ一番で勝負弱い」というイメージが定着してしまっています。そのイメージを強固にしたのが、1985年4月17日の阪神戦での「バックスクリーン3連発」。ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布の中軸3人が連続してバックスクリーンへホームランを叩き込んだ場面は、そのシーズンの阪神の猛打のハイライトとして今もなお語り継がれています。

強烈なインパクトを与えた「バックスクリーン3連発」で、被弾したのが槙原寛己でした。阪神戦では通算38勝10敗というキラーぶりを見せた槙原寛己にとっては、プロ入り初勝利も挙げた縁起のいいカードのはずでした。しかし、件の試合は、正捕手の山倉和博が欠場していたことに加え、初実戦となったシュートをランディ・バースに打たれたという動揺もありました。

岡田彰布に打たれた辺りでは、もはや放心状態だった槙原寛己。この時ばかりは、お得意の阪神戦という意識は完全に打ち砕かれたようです。現役時代はこの試合を相当苦にしていたと見え、阪神の応援歌「六甲おろし」のカラオケで意気消沈する自分の姿が映るのを見て、「いつまでも俺を笑いものにするのか!」とムカついていたと告白しています。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言いますが、「六甲おろし」への嫌悪感も相当だったようです。ある時期を境にようやく吹っ切れたのか、引退後は、「バックスクリーン3連発で打たれた槙原です」と講演で自虐ネタにする余裕も出てきています。

槙原寛己の出身校やプロフィール!結婚した嫁や子供は?

槙原寛己は甲子園最速147キロを計測!クローザー転向なければ200勝も夢ではなかった?

槙原寛己は1963年8月11日生まれの53歳。愛知県半田市出身です。身長187cm、体重94kgで、右投げ右打ち。愛称には「マッキー」や「ミスター・パーフェクト」などがあります。愛知県大府高校在学時から県下屈指の速球投手として名を馳せた槙原寛己は、1981年の第53回選抜高等学校野球に出場しました。その時に投げたストレートは、当時の甲子園最速147キロを計測し、熱い視線を浴びました。

槙原寛己は、愛工大名電高校の工藤公康と共にドラフト会議の目玉選手として注目されますが、小さい頃からファンだった巨人か地元の中日を希望球団として逆指名宣言。念願かなってドラフトで巨人から1位指名され、プロ入りを果たしました。ルーキーイヤーの1982年は2軍暮らしでしたが、1983年に1軍に昇格すると、初先発初完封という最高のスタートを切り、12勝を挙げて新人王に選出。

同じ時期に台頭した駒田徳広や吉村禎章と共に背番号つながりの「50番トリオ」で売り出され、次代を背負う若手として期待を受けます。プロ入り当初は、当時の日本最速155キロを計測する速球派でしたが、スライダー中心のピッチングにモデルチェンジして三振が取れる本格派のスタイルを確立していった槙原寛己。

好調時は攻略が困難で、特に1988年~89年は、防御率2.16、1.79という相手に点を与えないピッチングでした。これほどのピッチングならば、コンスタントに15勝前後は挙げていてもおかしくありませんが、なぜか味方の援護に恵まれていないのも彼の特色です。そんな槙原寛己のキャリアの中でも特筆すべきは、やはり1994年5月18日の福岡ドームでの対広島カープ戦で達成した完全試合でしょう。

本人も「一番思い出に残っている試合はこれしかない」という最高のゲームでした。これ以降の達成者は出ておらず、現時点では、槙原寛己が最後の完全試合達成者ということになります。このシーズンは、FA権を行使して他球団でプレーすることも視野に入れていたものの、長嶋茂雄監督の「17本のバラ」によって球団残留を決めた判断が吉と出ました。

キャリア晩年はクローザーに転向したものの、3年間で50セーブと、鉄壁のリリーフとは言い難い内容に。このクローザーへの配置換えがなければ、通算200勝達成も夢ではなかったかもしれません。2000年のシーズンに肩を痛め、翌シーズンも具合が思わしくなかったために現役引退しました。通算成績は、実働19年間で、463試合登板159勝128敗56セーブ、防御率3.19。2485回を投げて113完投2111奪三振です。

槙原寛己の嫁や子供は一般人か?子供は1男1女でいずれも成人している?

槙原寛己は現在53歳ですから、結婚して嫁もおり、子供ももうけていることと想像されます。しかし、家族構成に関する情報はほとんど表に出ていません。スポーツ選手の家族は一般人であることが多いため、情報がオープンにされていないことが多いことを考えると、槙原寛己の家族も一般人なのでしょう。嫁は現在51歳らしく、24~25歳の頃に結婚したと考えられます。

子供は1男1女をもうけており、長女27歳、長男21歳と、いずれも成人しているようです。長男が、桑田真澄の息子Mattのような芸能活動をしていれば、当然それなりの情報が出てくるはずですし、野球をやっていれば注目されることは必至。そういった騒がれ方もないということは、芸能界や野球界には関わっていないものと思われます。

槙原寛己がWBC1次ラウンド初戦にズバリ!野手陣100点満点も6失点投手陣に「勝ったから言わせて」と釘さす!

2017年も、WBC(ワールドベースボールクラシック)が盛り上がりました。「失点率」でメキシコ代表がまさかの敗退劇もありました。そんな中、1次ラウンド・プールBの日本代表とキューバ代表の一戦は、松田宣浩や筒香嘉智のホームランが飛び出すなど大量得点。11-6という乱打戦を制した「侍ジャパン」が、大事な初戦をものにしました。

この試合について槙原寛己は、野手陣を絶賛する一方で、投手陣にはチクリと釘をさしています。当日のTBS系「NEWS23」に出演した槙原寛己は、この試合を解説。7回裏2アウト1塁からの筒香嘉智のホームランが「ダメ押しだった」として、「非常に大事な場面で4番が打った。これで試合の勝利を確信した」と絶賛しています。

初回の菊池涼介のファインプレーや、中田翔の盗塁敢行にも触れ、「今日は野手の守備や盗塁もあったし、もう言うことなし。野手陣は100点満点」とご満悦でした。しかし、6失点の投手陣では打って変わって辛めのコメントが続きます。先発マウンドの石川歩から則本昂大らのバトンにも、「投手陣がバタバタしたから、もつれる試合展開になった」とズバリ。

「勝ったから言わせてもらう」として、「7回以降に登板するピッチャーの整備を急がないといけない。今後はもっと強いチームと対戦していくのに、これでは不安でモヤモヤが残る」と注文することを忘れませんでした。自分と同じピッチャーの話題となると、どうしても見る目が厳しくなりますね。バラエティ番組などではコミカルな一面を披露している槙原寛己ですが、やはりこういった姿を見ていると、野球が天職なのではないかと感じます。指導者としての活動も見たいと思うファンも大勢いるのではないでしょうか。

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