野坂昭如にダウンタウン命知らずの挑戦!?大島渚を殴った理由とは?
野坂昭如にダウンタウン命知らずの挑戦!?殴り合いの大喧嘩にまで発展!
野坂昭如は、タレント、作詞家、歌手、政治家と幅広く活動を続けてきました。小説「火垂るの墓」、「アメリカひじき」を執筆し、直木賞を受賞した、有名な作家でもあります。そんな芸能界における大御所である野坂昭如を殴るという、命知らずな行動をとった芸能人がいたという噂が。
噂の芸能人とは、ダウンタウンの浜田雅功。噂の事件は、1993年に放送されたテレビ番組「ガキの使いやあらへんで」に野坂昭如が出演した時のことです。「ガキの使いやあらへんで」では、ゲストに内緒で、どれだけ失礼な振る舞いができるかを競う企画があります。そこで、ダウンタウン浜田雅功は、野坂昭如の頭にハタキをいれるという行動に出ました。気が短いことで有名な野坂昭如は、これに激怒!放送はカットされたそうですが、この後、お互いを殴り合う大喧嘩にまで発展してしまったようです。
先輩、後輩に限らず、ツッコんでいくのがダウンタウン流であり、現在では広く知られているところですが、当時のダウンタウンはまだ若手。野坂昭如は、若手芸人にバカにされたと感じ、カッとなってしまったのでしょう。ダウンタウン浜田雅功にとっては、まさに命知らずの挑戦になったといえそうです。
野坂昭如と大島渚が殴り合いの大喧嘩!殴った理由は長時間待たされたから?
野坂昭如は、喧嘩っ早いことで有名ですが、ダウンタウン浜田雅功との他にも殴り合い事件が!それは、東京プリンスホテルで開催された、映画監督・大島渚と小山明子夫妻の結婚30周年祝賀パーティでのことです。野坂昭如は祝辞を述べた後、突然、大島渚の顎下に強烈なパンチを喰らわせるという事件が勃発しました。これには大島渚も大激怒し、持っていたマイクで野坂昭如を2回ほど殴りつけて仕返しする場面も見られました。
野坂昭如が大島渚を殴った理由とは一体何だったのでしょうか?どうやら、祝辞を読む出番がなかなか回ってこず、長時間待たされたことが、腹を立てた原因だった模様。しかし、これにはちょっとした食い違いがあったようです。大島渚は、野坂昭如に祝辞を読んでもらおうとしたところ、姿が見当たらず、帰ってしまったのだと思い、順序を飛ばしてしまったのだとか。
野坂昭如は会場内にずっといましたが、呼ばれるのを待っている間、大量の酒を飲んでしまい、かなり酔っぱらってしまいました。そんな泥酔状態だったので、おそらく野坂昭如は、呼ばれたことにすら気付けなかったのではないでしょうか。せっかくのパーティの場は、かなり険悪な雰囲気になりましたが、その後、野坂昭如と大島渚は謝罪し合い、和解したそうです。
野坂昭如「火垂るの墓」は実話自伝だった?娘の国語の授業にも登場し……
野坂昭如「火垂るの墓」は実話と願いが入り混じる作品?自伝で語った妹への後悔とは?
野坂昭如「火垂るの墓」は、反戦小説として知られる名作の1つ。野坂昭如「火垂るの墓」は、戦時中に起こったある兄弟の悲劇を描いた作品ですが、実はこの物語は、野坂昭如の実話自伝だといわれています。戦争の悲劇が描かれている「火垂るの墓」は、すべて実話に基づくものなのでしょうか?
野坂昭如は、「火垂るの墓」について、著作「わが桎梏の碑」にて語っています。「火垂るの墓」は、戦時中の実体験を元に制作された小説とのこと。しかし、すべてが実話というわけではありません。「火垂るの墓」に登場する主人公・清太の妹・節子は4歳ですが、当時の野坂昭如の妹の年齢は1歳4カ月。また、食糧事情が悪かったことは事実ですが、世話になっていた家を出て、防空壕で暮らすといったことはなかったそうです。
作中の清太は、妹・節子のためにあれこれと世話を焼いていますが、野坂昭如は「自分は清太ほど優しくなかった」と語っています。泣き止まない妹の頭を叩いて脳震盪を起こしたこと、お腹が空いて衰弱していく妹を横目に、少ない食料を自分だけで食べ、ついには妹を餓死させてしまったことなどをとても後悔しています。「火垂るの墓」は、野坂昭如の戦時中の実体験と、妹をもっと大事にすれば良かったという後悔と願いが込められた作品なのです。
野坂昭如「火垂るの墓」は娘の国語の授業にも登場!「火垂るの墓」を書いた当時の気持ちとは?
野坂昭如「火垂るの墓」は、作者の実体験を元に、独特の文体や描写で、戦争の悲しみや苦しみ、狂気などをリアルに描いた作品であるため、学校の国語の授業でも題材としてよく取り上げられます。野坂昭如の娘が通う学校の授業でも、「火垂るの墓」が取り上げられ、こんな問題が出題されました。
「『火垂るの墓』の作者は、どういう気持ちでこの物語を書いたでしょうか」。
父親が、まさにその作者であったため、娘は野坂昭如に、「どういう気持ちだったの?」と質問しました。その際、野坂昭如はこう答えたそうです。
「締め切りに追われ、ヒィヒィ言いながら書いた」。
翌日、野坂昭如の娘がこの答えをそのまま提出したところ、×をもらったそうです。
先生が求めていたのは、作品を書いた当時の苦労ではなく、物語の内容についての思い。作者の娘からの思いもしない答えに、さぞ複雑な気持ちだったのでは……。
驚くことに、野坂昭如は「火垂るの墓」を書くつもりは、もともとなかったそうです。また、制作当時は、実際にかなりスケジュールが詰まっており、毎日のように原稿の催促もあったとのことで、まさに「ヒィヒィ言いながら書いた」作品なのだそうです。
野坂昭如が心不全により都内で死去!マルチに活動しながら訴え続けてきたこととは?
野坂昭如は、少々喧嘩っ早い性格でありながらも、人の心に寄り添う優しさも併せ持ち、多くの人から愛されてきました。そんな野坂昭如が、2015年12月9日に都内で死去しました。享年85歳。死因は、誤嚥性肺炎で併発した心不全でした。
野坂昭如は生前、「火垂るの墓」、「同心円」、「文壇」などの名作を生み出し、テレビ番組や雑誌などに出演したり、童謡「おもちゃのチャチャチャ」やハトヤのCMソングなどの作詞を手掛けたりと、マルチに活躍してきました。1980年代には、参議院議員として政界に進出して活動していましたが、田中角栄元首相の金券政治に異を唱えて対抗し、敗北してしまったという一幕も。
そんなマルチ過ぎる人生を歩んできた野坂昭如の活動を通して、特に印象深いのは、反戦を訴えて続けてきたことです。野坂昭如は、「火垂るの墓」や「戦争童話集」など、自身の著作やその他の活動を通じて、「二度と戦争をしないことが死者への礼儀だ」と訴え続けてきました。野坂昭如は自身の体験により、戦争がいかに悲惨で、虚しく、人間を狂わせるものであるかを知っていました。
そのため、戦争をリアルに表現し、この先の日本が同じ轍を踏まないようにと訴えてきたのです。しかし、野坂昭如の死の4カ月前、日本が軍国主義の道へと歩み始めたかのような出来事が起こりました。それは安保法案の採決。国民や専門家らの意見を無視し、説明不十分のまま、安保法案が強制的に採決されたことを受け、野坂昭如は、今の政府は世間の反対を押し切り、自分たちの思い通りに突き進む戦前の政府とそっくりであると語っています。
漫画家・水木しげるに続き、戦争を語れる人物がまた1人亡くなってしまったことは、戦争を知らない私たちにとって、大きな損失といえましょう。平和を維持するためには、野坂昭如が残したメッセージを今一度心に刻み、政治と向き合う必要があるのではないでしょうか。
野坂昭如が残した最後のメッセージといえば、「男の詫び状」。本書は、野坂昭如と37人の著名人との往復書簡集です。野坂昭如は「男の詫び状」で、各著名人たちからの手紙に対し、反戦への揺るがぬ意志、そして、相手を包み込むような優しさと愛情で応えています。脳梗塞で倒れて以来、ずっと闘病生活を送ってきたにも関わらず、人への思いやりを決して忘れなかった野坂昭如。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。