オスマン・サンコンが妻に離婚宣言!?ギニア人の結婚観と視力に驚き
オスマン・サンコンが妻に離婚宣言!?「代わりはいくらでもいる」
タレントのオスマン・サンコンが人気を博したのは、1980年代後半から1990年代前半でした。現在、なかなかテレビで見ることはありませんが、くしゃっと笑って見せる白い歯は今も変わりません。
オスマン・サンコンは、もともとはギニアの外交官として来日したものの、休職中に声をかけられて、人気番組「笑っていいとも!」に出演するようになりました。バラエティ受けする愉快なキャラクターで、明るい印象のオスマン・サンコンですが、プライベートでは少々厳しい面もあるようです。
2014年10月13日に放送されたバラエティ番組「私の何がイケないの?」で、サンコン夫妻が取り上げられました。ギニアは一夫多妻制なので、妻が複数名いるのが普通です。その3人目の妻であるドマーニが、「もう疲れた。今すぐ母国に帰りたい」と漏らしました。
妻のこの言葉をきいた夫オスマン・サンコンは大激怒。「帰りたかったら帰ればいい」「代わりはいくらでもいる、また別の奥さんを探せば良い!」と、離婚を突き付けたとも取れる厳しい言葉を放ちました。
オスマン・サンコンはじめギニア人の結婚観と視力に驚き!一夫多妻制の責任と脅威の視力6.0
オスマン・サンコンの出身国であるギニアは、8割以上がイスラム教徒。そのイスラム教が、一夫多妻制を認めています。1人の男性が持てる妻は4人までで、自然と大家族を形成することになります。実際、オスマン・サンコンの父親にも3人の妻がおり、オスマン・サンコン自身は、22人兄弟の12番目です。
「複数の女性と結婚できるなんて素晴らしい」と感じる男性もいるかもしれませんが、これには経済力が求められます。夫は妻を保護して扶助を与える義務を負っているので、2人以上の妻を持つ場合、それぞれ平等に接しなければなりません。もし、妻の間で差をつけたり、妻に対する夫の義務を果たさない場合は、離婚だけでなく、賠償請求されることも。オスマン・サンコンがギニアのエリートであることを考えれば、「代わりはいくらでもいる」という言葉も、あながち嘘ではないことが分かります。
また、オスマン・サンコンがテレビで活躍していた頃、その視力の良さがしばしば話題となりました。番組放送時の彼の視力は6.0。一般的な視力検査に使う「C」の図柄の視力表が30m先にあっても、1.0の記号がはっきり見えるというレベルです。オスマン・サンコンの言葉を借りれば、「ビルの10階屋上から、下のスポーツ新聞が読める」くらい。しかし、アフリカでは、これでも「近視」なのだとか。また、都市生活が続き、遠くを見渡す機会がなくなると、視力は落ちます。実際に、オスマン・サンコンも、日本に暮らすようになって1.2まで落ちたそうです。
オスマン・サンコンの息子はヨンコン!焼香にまつわる失敗談とは?
オスマン・サンコンの息子はヨンコン!レゲエDJから農業へ転職
オスマン・サンコンには少なくとも5人の子供がいると言われています。その1人が「ヨンコン」。「サンコンの息子がヨンコンなんてギャグか?!」と言われそうですが……ギャグです。「ヨンコン」の本名は、サンコン勇。オスマン・サンコンの息子という理由で「ヨンコン」がニックネームとなり、その名義のまま、レゲエDJ活動などを行ってきました。
ヨンコンが生まれたのは1984年4月17日。レストランでの接客や、酒屋の配達、現場作業員、バーテンダー、歯科アシスタントなど、これまでさまざまな職業を経験してきたと言います。DJ時代には、「ラジかるッ」や「さんまのからくりTV」などにも出演していましたが、28歳の時に母親を亡くし、所属していたレゲエグループ「笑連隊」を脱退しました。
その後、2015年11月に、静岡県出身の女性と結婚してからは、農業にかかわるように。父オスマン・サンコンもギニアで農園を経営していることから、将来は、アフリカ人に農業指導をしたいと考えているとのことです。
オスマン・サンコンの焼香にまつわる失敗談とは?「酸っぱい」「苦い」焼香
日本の文化に馴染んで久しいとはいえ、オスマン・サンコンに、日本の葬式で焼香用の抹香を食べてしまうという失敗談がありました。焼香の列に並び、前の人の仕草を見よう見まねでやろうとしたのはいいのですが、日本語の「ご愁傷様でした」を「ごちそうさまでした」と勘違い。
さらに、抹香をつまんだ指先は顔の前まで持っていきますから、後ろから見ると、食べていると誤解しても仕方ないのかもしれません。食べてみた感想は、「酸っぱい」「苦い」。話のネタとしては笑えるものの、健康という面から見ればいただけませんから、真似はしないようにしましょう。
オスマン・サンコンが春の叙勲で旭日双光章!差別的発言も笑ってかわす度量
オスマン・サンコンがテレビで大活躍していたのはもうずいぶん前のことですが、2017年の春に、再び彼の姿を見ることができました。なんと、春の叙勲の受賞者に、オスマン・サンコンの名前が!春と秋に贈られるこの叙勲は、政治や芸術などにおける功績を称えたもので、2017年は、森元首相ら4,080名が受賞しています。
駐日ギニア大使館顧問や、社団法人日本・ギニア友好協会の広報室長、NPO法人ギニア日本交流協会顧問を現役で務めているオスマン・サンコン。こうした活動を背景とした「日本・ギニア(アフリカ)間の友好親善及び相互理解の促進に寄与」を功績として、旭日双光章を授章しました。
今でこそ日本語を話し、日本の文化にも慣れているオスマン・サンコンですが、やはり当初はさまざまなことで苦労したそうです。もっとも苦労したのは、「とにかく言葉」。大使館の仕事をしながら語学学校に週3回の頻度で通い、自分で辞書もつくりながら日本語を勉強したと明かしています。
しかし、そうした奮闘ぶりを知ってか知らずか、テレビ番組では、いじられる側としてさまざまなツッコミを受けました。ちょっとした言葉の言い間違いや勘違いを取り上げられることにはじまり、ひどくなると差別的な内容まであったと言います。しかし、オスマン・サンコンは怒りませんでした。怒らずに笑って返せるのは、「自信があるから」です。ギニアの国立大学を卒業し、国のお金でソルボンヌ大学に留学した後は、ギニアの外務省に入るという超エリートコースを歩んできたオスマン・サンコン。
「勉強もたくさんしてきた」と言う通り、若い頃だけでなく、50歳になってからも介護ヘルパー2級を取得するなど、勉強する姿勢は衰えていません。近年は、インターネット上で過激な議論が交わされることも多いですが、相手の言葉にカチンと来てすぐ言い返すのではなく、彼のように、さらりと笑ってかわせるくらいの自信と大きな度量を持ちたいところです。