2020年8月13日 更新
坂井義則は元陸上競技選手で元フジテレビ社員。経歴を紹介!
◆死没:2014年9月10日
◆出身:広島県
◆出身校:早稲田大学
◆所属事務所:東京オリンピック(1964)聖火リレー最終ランナー
坂井義則の経歴は?
坂井義則(さかいよしのり)は、第二次世界大戦で原爆が投下された1945年8月6日に、広島県三次市で生まれました。地元の中学で陸上競技を始め、その後進学した早稲田大学では日本陸連の強化指定選手に選ばれますが、目指していた東京オリンピックの代表選考会で他の選手に敗れています。
しかし、1964年10月に開催された東京オリンピックで、坂井義則は最終聖火ランナーとして国立競技場の聖火台に点火する大役に抜擢。国内外のメディアは当時19歳だった坂井義則を「アトミック・ボーイ(原爆の子)」と呼び、戦後復興と平和の象徴として大々的に報じました。
1966年に開催されたバンコクアジア大会では1600mリレーで優勝を果たし、400mでも銀メダルを獲得。早稲田大学を卒業後に入社したフジテレビではスポーツや五輪の報道に携わり、スポーツ部専任部長などを歴任しました。1993年のクリスマスに惜しまれながらガンで世を去ったフジテレビアナウンサーの逸見政孝は、坂井義則と同じく早稲田大学からフジテレビへ入社した同期だったといいます。
フジテレビを定年退職後、同社のクリエイティブコーポレーション制作部のエグゼクティブプロデューサーを務めた坂井義則は、2014年9月10日に脳内出血で69年の生涯に幕を閉じました。
坂井義則は元陸上競技選手!引退後はフジテレビへ
坂井義則は広島県立三次高校在学中の1963年に「第19回国民体育大会」の400mで優勝。以降は東京オリンピックへの出場を目指し、1964年に早稲田大学に入学しています。
同大では競走部に所属し、中村清監督の熱心な指導のもと練習に励みました。その練習の成果からか、坂井義則は東京オリンピックの400mと1600mリレーの強化選手に指名されます。しかし代表選考会で他の選手に敗れ、選手としての出場は叶いませんでした。
それでも坂井義則は東京五輪閉幕後も陸上を続け、400mと1600mリレーで活躍。バンコクアジア大会での1600mリレーで金メダル、400mでも銀メダルを獲得する活躍を見せています。
フジテレビでは、1972年のミュンヘンオリンピックと1996年のアトランタオリンピックの報道を手がけ、ミュンヘンオリンピックでは、パレスチナのゲリラによる選手村襲撃事件を最前線で報道しました。この時、日本選手団のユニホームを借りて選手村に潜入した坂井義則は電話を使い、緊迫した現地の様子を伝えています。
また、東京国際マラソンの実施に向けた海外有力選手への出場オファーも担当するなど、スポーツの振興に力を尽くしました。
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坂井義則の息子はTBSのディレクター?
坂井義則の結婚相手はどんな人?
東京五輪の開会式で聖火最終ランナーを務めた坂井義則は、約半年の闘病の末に69歳でその生涯を終えました。最期を看取った妻の朗子は、「スタンドの隅っこでいいから、2人の孫と一緒に2020年の東京五輪を見たいと、ずっと言っていました。それが心残りなのでは…」と寂しそうに語っています。
坂井義則の妻・朗子は、夫を一番近くで見守り支え続けてきた人物の一人。2人が結婚した日や馴れ初めについては明らかにされていませんが、2人の間には息子も生まれ、夫婦仲良く暮らしてきたようです。
坂井義則亡き後、その功績をたたえるレリーフが三次市東酒屋町の市運動公園陸上競技場入り口付近に設置されました。この除幕式で妻の朗子は「孫と一緒に東京五輪を見たいと言っていた主人を思い出す。皆さまのお気持ちに感謝する」と目頭を押さえながら感謝を伝えました。
坂井義則の息子はTBSのディレクター!
坂井義則の息子である坂井厚弘は、TBSでディレクターとして活躍しています。2007年の「世界陸上選手権」では、国際映像のチーフディレクターを担当。2014年5月には旧国立競技場のエンディング特番も任され、準備のため聖火台の横に立った坂井厚弘は、「ああ、ここにおやじが立ったんだなあと思った。本当に素晴らしい眺めでした」と感慨深げに話しています。
東京で二度目の開催となるオリンピックに自身が関わることについて、坂井厚弘は「おやじはどんどん商業的になる五輪を嫌がっていた。私はアフター2020が大事だと思います。次の世代、子供たちに何が残せるかが重要だと思う」と父・坂井義則の思いを明かすとともに、大会に対する意気込みを語っています。
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坂井義則は東京オリンピック開会式で聖火リレーの最終ランナーに!選ばれた理由は?
坂井義則が聖火ランナーに選ばれた理由とは?
坂井義則は400mと1600mリレーで日本代表の強化選手に指名されながら、代表選考会で惜しくも敗れ、東京オリンピックに出場するという夢は叶いませんでした。しかし、五輪組織委員会は他の選手に決定していた聖火最終ランナーを坂井義則に委託します。
最終走者に決定していたのは、三段跳びで出場した1928年のアムステルダムオリンピックで、日本人初の五輪金メダリストとなった織田幹雄でした。しかし、最終走者はぜひ未来ある若者たちにという意見が上がり、最終候補に残った10代の陸上選手10人の中から坂井義則に決定。「広島への原爆投下という象徴的な日に生まれたから」というのが、世界中の人々が注目する祭典で大舞台を任された理由でした。
坂井義則が現在の五輪を非難「平和の祭典ではない」
東京オリンピックの開会式が行われた1964年10月10日、8人の若い選手による最終の聖火リレーが行われました。会場となった国立霞ヶ丘競技場の千駄ヶ谷門で、当時中学3年生で大役を務めた走高跳の鈴木久美江から聖火を受け取った坂井義則はトラックを半周してから聖火台までの階段を駆け上り、無事大役を務めました。その瞬間を見届けた鈴木久美江は、150段を超える階段を踏み外さないよう気を付けると話していたこと、そして聖火が灯った時、緊張で硬かった坂井義則の表情が緩んだことを、後の取材で振り返っています。
2014年に亡くなるまで、自身が情熱を注いだ陸上に関わり続けた坂井義則。晩年、新聞社の取材に「五輪はアマチュアの祭典でも平和の祭典でもなくなった。金もうけのための祭典じゃないですか」と語っています。2020年に開催予定だった東京オリンピックは2021年に延期され、無事開催されるのかも危ぶまれる状況ですが、各国の様々な思惑に左右されることなく、純粋に夢の舞台を目指して打ち込んできた選手たちが持てる力をぶつけ合う素晴らしい舞台となることを願って止みません。
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