田原直哉は元オリンピック候補の体操選手だった!スキー・エアリアルに転向した理由は?
田原直哉はスキー・エアリアルでオリンピック代表入り!体操で代表候補だった!
平昌オリンピックのスキー・エアリアル日本代表の田原直哉(たばらなおや)が、もともと男子体操のオリンピック代表候補選手だったことをご存じでしょうか?全く別の競技に転向して成功を収めることは決して容易なことではありませんが、そのハードルをクリアして、実力で地位を固めた異色の選手と言えるでしょう。
1980年12月24日生まれ、和歌山県和歌山市出身の田原直哉は、身長165cm、体重68kg。8歳から体操競技を始め、日本体育大時代の2001年に、インカレで個人総合3位を記録しました。その後もユニバーシアードや全日本選手権で活躍を重ね、2004年には、アテネオリンピック代表候補に。しかし惜しくも代表には手が届かず、その後は右肩の筋断裂に苦しんだことから、体操の道を断念してスキー・エアリアルへ転向します。
転向2年目の2008年には全日本スキー選手権で3位に食い込み、翌2009年には全日本スキー選手権2位になり、2011年からは、全日本スキー選手権2連覇を達成するまでになった田原直哉。新たなジャンルで復活を遂げた不屈の精神力は称賛に値します。
田原直哉のスキー・エアリアル転向理由は?
幼い頃から体操ひとすじだった田原直哉は、なぜ畑違いのスキー・エアリアルに転向したのでしょうか?スキー・エアリアルとは、スキー板をはいて、ジャンプ台に向けて直滑降で滑っていき、空中で宙返りをして着地するという競技で、事前に申告しておいた技に対して採点される仕組みです。
空中で宙返りして着地するという流れは、体操に似通った部分があるため、今までに培ったノウハウが生かせると感じたのでしょう。田原直哉は、以前から興味があったこともあり、迷うことなくスキー・エアリアルへの転向を決意しました。普通ならば、ケガにより体操を断念した段階でアスリート引退という結論に達しそうなものですが、「なんとしてもオリンピックに出たい」という執念が強かったという田原直哉。
とはいえ、スキー経験があったわけではなく、最初はスキー板をハの字で履く状態だったと言います。スキーもおぼつかないレベルからのスタートには、当然ながら家族から反対されるばかりだったとか……。そのような状態から経験を積み、今や国際舞台で通用するまでになったのですから本当に素晴らしいことです。
田原直哉が所属するミルキーウェイとは?戦績や競技生活の実状は?
田原直哉が所属するミルキーウェイとは?ハンバーグが自慢のファミリーレストラン!
田原直哉が所属しているミルキーウェイは、「すき家」などで有名なゼンショーホールディングス系列のファミリーレストラン。宮城県仙台市にて弁当店を展開していた株式会社ミルキーウェイと、ゼンショーホールディングスが100%出資しているレストラン「ビッグボーイ」を運営するビッグボーイジャパン、札幌市が拠点の株式会社ヴィクトリアステーションの3社が統合し営業する形態を取っています。おすすめは、「ミルキーハンバーグプレート」と「6種チーズビーフハンバーグプレート」の2品です。
田原直哉の非常に厳しい競技生活の実態!苦労の中でワールドカップ3位の戦績
所属先はミルキーウェイとはいえ、資金的なサポートがあまりないのか、田原直哉の競技生活は金銭的に非常に厳しい実状だと言います。遠征費などは全て自己負担のため、住み込みアルバイトをしたり、オフィシャルサイトで寄付を募ったりして、遠征費や合宿費をやり繰りしなければなりません。
全日本スキー連盟から強化費が出るとはいうものの、焼け石に水状態で、節約するため友人宅で間借りすることもあるとか。それでも費用が捻出できない場合は、貯金を取り崩したり、身辺にある物を換金したりして、「自分が生きていくだけで精いっぱい」とコメントしています。
練習環境も恵まれたものではなく、一般のスキーヤーと同じゲレンデでただ1人孤独な練習を積み重ねている田原直哉。そこまで厳しい状況ながらも、2012年のワールドカップ・モンガブリエル大会では3位となり、 日本人男子選手として初の表彰台に上がる快挙を達成しました。
2016年のディアバレー大会と2018年のレークプラシッド大会でも3位と、国際舞台で力を発揮しています。平昌オリンピックで金メダルを獲れば、一躍有名になり、テレビやCM出演やスポンサー収入が得られ、費用の確保に苦労することはなくなることでしょう。ぜひとも、大舞台で力を発揮して欲しいものですね。
田原直哉が平昌オリンピック代表入り!悲願の大舞台へ
2018年2月9日に開幕する平昌オリンピックに向けて、全日本スキー連盟が発表した代表選手リスト12名の中には、田原直哉の名前がありました。2004年の体操選手時代に、アテネオリンピック代表候補になったことはありましたが、実際に代表入りするのは初めて。体操選手時代には手が届かなかった悲願のオリンピック出場に、14年の歳月を経てようやくこぎつけました。
アメリカ・レークプラシッドワールドカップ3位の結果を引っ提げて帰国した田原直哉は、「オリンピック直前に成績出るか出ないかで全く気持ちの持ちようが違う。これで、オリンピックに楽に入れると思います」と手応えを口にしています。2006年に体操からスキー・エアリアルに転向して12年。アルバイトで食いつなぎ、恵まれない環境で苦労しながら競技を続けてきた今までを振り返ってのコメントは、「長かったと言えば長かった」。
しかし続けて、近年は好成績が続いていることから「14年ですけど、あっという間だったかな」と感慨深げな様子でした。体操のノウハウが生かせると思っての競技転向でしたが、実際のところは「そんなに甘くなかった」そうです。簡単にできると思った回転やひねりは、「板とブーツで重心が変わってしまう」ため試行錯誤が続きました。
そんな当初の苦労を経て、出場の切符を手に入れた平昌オリンピックについては、「メダルしかない。そこだけです」と目標をはっきり口にしています。ぜひ、常日頃から口にしている「俺が辞めたら誰がこの競技をやるのか」という気概を大舞台でも見せつけてほしいものです。エアリアルの競技日程は、2月17~18日。田原直哉のこれまでの苦労が報われる瞬間を見守りましょう。