田尾安志が連続敬遠に男前抗議!現役時代はどんな選手だった?
田尾安志が優勝試合での連続敬遠に抗議の空振り!この敬遠はリーグ優勝の行方を決定づけた!
田尾安志(たおやすし)は、中日ドラゴンズ「恐竜打線」のトップバッターとして活躍した名選手。現在は弁舌さわやかな解説と、その愛らしい眼と温厚そうな雰囲気で人気です。
しかし素顔は、納得できないことには物申す筋金入りの硬骨漢。理不尽なことがあれば、断固として退かない男前な人物です。その性格を表すエピソードの1つに、連続敬遠への抗議の空振りがあります。中日がリーグ優勝を飾った1982年のこと。優勝をかけて臨んだ横浜大洋戦には大きな注目が集まっていました。
注目のポイントは、勝敗の行方もさることながら、首位打者争いに猛チャージをかけた田尾安志に、大洋投手陣がまともに勝負するかどうかでした。というのも、1厘差で首位打者争いをリードしていた大洋の主力打者・長崎啓二は、当日の欠場が濃厚。そのような状況下では、首位打者奪取に燃える田尾安志が敬遠されることは見え見えでした。本人もうすうす察し、「全打席敬遠なら無条件で出塁できるし、得点にも絡める」と割り切っていたようですが、回を重ねるにつれ、思いが変化し始めます。
「このまま勝負しないのではスッキリしない」と思った田尾安志は、5打席目である行動に出ました。それが、敬遠球を空振りするという抗議の意思表示です。3球連続敬遠球のあと、2度空振りした田尾安志の行為に、場内は騒然となりました。敬遠自体はルール上問題ない行為です。
しかし、この試合は、中日が勝つか引き分けならば中日優勝で、大洋が勝てば巨人が優勝するという、リーグ優勝の行方を決定づける重たいものでした。そのため、トップバッターの田尾安志を敬遠で出塁させた大洋は、敗退行為というバッシングを浴びてしまうことに。9-0で圧勝してリーグ優勝を飾った中日でしたが、この敬遠策が後味の悪さを残したことは間違いありません。
田尾安志はあのイチローも憧れた中日の「安打製造機」!ファンにはおなじみ「円月打法」!
田尾安志は、現役時代に俊足巧打の外野手として鳴らし、ファンから絶大な支持を集めた人気選手でした。16年間の通算成績は、1683試合出場、5414打数1560安打149本塁打574打点、打率2割8分8厘。打席でバットをグルグル回す「円月打法」は、ナゴヤ球場に通いつめたファンにはおなじみでしょう。「竜のプリンス」と呼ばれた甘いマスクと華やかなプレー、実直な姿勢などがファンから愛され、イチローも少年時代に憧れた選手としてその名を挙げるほどです。
1980年代きっての巧打者として知られ、1982年からは3年連続で最多安打を記録。広角にヒットを打ち分ける技術は「安打製造機」とも呼ばれました。一方で、これほどのヒットメーカーでありながら、首位打者タイトルに縁がなかったことは不運としか言いようがありません。
「言うべきことは言う」というスタンスを貫き通した田尾安志は、中日時代には、選手会長として、球団も手を焼くほどの一言居士ぶりを発揮しています。広島とのデッドヒートを演じた1984年シーズン中に、選手会長として、「優勝したら年俸アップして欲しい」と打診したものの、球団は煮え切らない態度を返すばかり。優勝を逃したシーズン終了後の、「ご希望通り、2位で終わりました」という田尾安志の皮肉を込めた発言に怒った球団サイドが、西武ライオンズにトレードを決めたと伝えられています。
そのトレードにファンが大憤慨して中日新聞ボイコット騒動に発展したというエピソードから、彼の人気ぶりがうかがい知れるというものです。西武では日本一を経験したものの、どうしても環境が合わなかったようで、その後、憧れだった阪神タイガースへ移籍。先発出場機会は減ったものの、ここ一番の勝負強さで存在感を発揮しました。
田尾安志の出身校やプロフィール!監督としての評価は?
田尾安志の同志社大時代は4番でピッチャー!ルーキーイヤーには新人王に!
田尾安志は、1954年1月8日生まれの63歳。身長173㎝で、体重75kg、左投げ左打ちです。生まれは香川県三豊市ですが、育ったのは大阪府大阪市西区で、大阪府立泉尾高校へ進学。先輩部員が5人だけという弱小野球部だったにもかかわらず、3年夏には、2回戦で近大附属高校を下し、強豪ぞろいの大阪でベスト4に食い込みました。
同志社大学へ進学した後は4番を打ち、投手兼野手としてフル稼働し、大学3年時には、春秋2季連続で首位打者タイトルを獲得しています。1975年のドラフトで、中日ドラゴンズから1位指名を受けてプロ入りしますが、守備と走塁がプロのレベルに達していなかったため、2軍で経験を積み重ねた後に、1軍デビューしました。
デビュー後は好調で、規定打席には達していなかったものの新人王に選出されています。1981年からは、4年連続して打率3割を打ち、1982年は、最高出塁率でリーグ優勝に貢献し、同年から3年連続してリーグ最多安打を記録。1985年には、トレードで西武ライオンズに移籍し、リーグ優勝に貢献したものの、1987年には、学生時代から憧れだった阪神タイガースに移籍し、サヨナラ本塁打を3本打つなど抜群の勝負強さを発揮しました。
1991年、視力の悪化を理由に現役引退し、野球解説者として活躍した後、楽天初代監督として指揮を執ることになります。
田尾安志の監督成績は38勝97敗!貧弱な戦力を前に奮起、山崎武司を復活に導いた手腕は一定の成果を残した!
田尾安志の楽天監督としての成績は、2005年シーズンで、なんと38勝97敗1分!勝率は2割8分1厘と、壮絶なまでの数字です。打率かと疑いたくなる勝率を見れば、監督としての手腕には疑問符が付くかもしれません。しかし、この数字をあげつらう前に、当時のチームが置かれていた状況に目を向けるべきでしょう。
楽天は、オリックスブルーウェーブと近鉄バファローズの統合を背景に、両チームの1軍半レベルや峠を越えた選手を寄せ集めて出発したチームでした。加えて、オーナーを初めとする球団首脳陣は、野球についてほとんど素人という有様で、楽天は、監督の手腕をうんぬんする以前の状況に置かれていたと言えます。
そのような中で監督就任を要請された田尾安志は、3年契約で指揮を執ることに。彼の指導で、山崎武司が復活の兆しを見せ、礒部公一や吉岡雄二らベテラン打者も成績を残すなど明るい材料もありましたが、シーズン中は、11連敗を2度、5連敗4度など連敗のオンパレード。
契約期間を2年残して、解任通告の憂き目にも遭いましたが、理不尽な解任に反対署名運動が起こるほど、田尾安志の姿勢はファンの心を揺さぶりました。後に、主砲として復活を遂げた山崎武司が、「田尾監督の指導で打撃フォーム改造に徹底的に取り組んだ。楽天時代の好成績の要因の1つだと思う」と回顧したように、一定の成果を残したことが見て取れます。
田尾安志は楽天監督解任時の条件を一蹴!西武時代にはルーキーの2軍行きに「誘ったのは自分」と詰め寄った!
2017年シーズン、首位を快走している楽天ゴールデンイーグルス。その初代監督として苦難の日々を過ごしたのが、プロ野球解説者の田尾安志です。解説などではソフトなイメージが強いですが、その人となりは「外柔内剛」を地で行くような性格。どんなお偉方が相手でも、筋が通らぬことには歯に衣着せずズバリ物申すタイプです。
記念すべき楽天初代監督生活は1年と短命で、三木谷浩史オーナーからは、「残った年の契約について功労金を出すが、楽天の悪口を一切言わないという誓約を書くこと」という条件が出されました。これに対してカチンときた田尾安志は、「そんな誓約書を書いてまで、功労金が欲しいとは思いませんよ」と、にべもなく一蹴。気骨あふれる人柄だけに、どうしても軋轢を生んでしまうことになるようです。
現役時代の西武でも、その硬骨漢ぶりは健在でした。移籍1年目のキャンプでの休日、田尾安志は、あるルーキーをねぎらう意味で食事に誘いました。門限に間に合うよう帰らせたものの、監督の広岡達朗にばれると、当のルーキーは即2軍行きに。納得しかねた田尾安志は、「誘ったのは自分です。彼が2軍行きなら、自分も同じにしてください」と詰め寄りました。
ここで、広岡達朗監督は、「お前ほどの選手ならば何も言わん」「しかし、若い連中はもっと鍛えんといかんのだ」と諄々と諭したと言います。さすがに「それも道理だ」と納得した田尾安志。筋が通っていると分かればおとなしく納得するところもまた彼らしいところです。とはいえ、理不尽なことを求める相手には気骨を見せるのが彼の本領。これほどのサムライが年々少なくなっていく様子を見るにつけ、非常に寂しい気がします。