2021年3月23日 更新
ジャイアント馬場は身長から年収まで何もかもが桁外れだった!伝説を追う!
◆死没:1999年1月31日
◆出身:新潟県
◆身長・体重:200cm・90kg
◆血液型:O型
◆出身校:三条工業高校中退
ジャイアント馬場はプロレスの黄金期を担ったプロレスラー!年収もすごかった?
ジャイアント馬場(ジャイアントばば)が、プロレスのリング上で実際に戦う姿を観た記憶があるという人は、もうほとんどが50代より上の世代でしょう。よほどのプロレス好きでない限り、それより若い人たちは、ビートたけしのホラ話や関根勉のモノマネなど、カリカチュアされたジャイアント馬場しか知らないはずです。
ジャイアント馬場は、1999年に61歳の若さで亡くなっています。日本のプロレス界のみならず、世界のプロレス界においても、その圧倒的強さだけでなく、優れたプロモーターとして今に名を残す、まさに伝説の巨人プロレスラーです。
ジャイアント馬場は全盛期には桁違いの年収を手にしていたといわれ、プロレスチャンピオンになって年収が3億円を超え、給料袋が縦に立ったと語っていたこともあります。しかし、経営者として節税ができたため、新聞で発表される長者番付のジャイアント馬場の順位は下位だったとのこと。過去に税務署から表彰されたこともあります。
ジャイアント馬場の身長に関する逸話!
ジャイアント馬場の身長は209㎝あり、全盛期の体重は145㎏あったと公表されています。その大きな体については「クルマのサンルーフから顔を出して運転している」とか「巨人の投手時代、球を投げようとしてキャッチャーの頭を叩いた」といったエピソードが出回っていたほどです。
当時ジャイアント馬場の付き人をしていた元プロレスラー・小橋建太によると、ジャイアント馬場の付き人として重要な仕事の1つに、滞在先のホテルのベッドメイキングがあったとか。
ベッドそのままだとジャイアント馬場の足が飛び出てしまうため、付き人がビール瓶ケースを土台にしてからその上に毛布を敷き、ベッドと同じ高さに揃えるなど工夫を凝らす必要があったといいます。いかに大きかったのかがよくわかる逸話です。
ジャイアント馬場の伝説!素顔は葉巻をくゆらせ読書する規格外の紳士?
ジャイアント馬場はその体の大きさから荒っぽい印象を持たれがちですが、実は、その真逆といえる存在でした。無類の読者家で、年間200冊以上の本を読み、中でも歴史小説が大好きだったことで知られています。好きな葉巻をくゆらせ、静かに本を読む姿は、知的な紳士そのものだったそうで、今となってはその姿も伝説と化しています。
「楽しく明るいプロレス」と言い続けていたジャイアント馬場。周囲から見ると伝説的な活躍を見せていたにも関わらず、自身については「成り行きと言うと無責任なイメージを持つけど、これほど強いものはない。自然の流れに逆らわずに正直に生きるってこと」と語ったのだそう。この言葉にも、前向きで泰然自若とした人柄が表れています。
また、「水戸黄門」以外は、映画やテレビはほとんど見ていなかったため、空港で名優・高倉健に挨拶されても、「水戸黄門」では見かけない俳優だと軽くあしらったとか。高倉健を知らない有名人というのも伝説になりそうです。ジャイアント馬場は、全てにおいて規格外の人物だったといえますね。
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ジャイアント馬場は野球選手からプロレスラーへ!全盛期は華麗なアメリカンスタイルで魅せた
ジャイアント馬場は元野球選手!読売ジャイアンツの投手だった
ジャイアント馬場が、最初は読売ジャイアンツのプロ野球選手だったことを知る人も少なくなってきました。新潟県三条市生まれで、小学校3年生の頃から急に大きくなってきた馬場正平少年は、野球を始めます。地元の三条高校では、身長190cmのエースとして活躍しますが、甲子園出場は叶いませんでした。
しかし、スカウトを受けて2年で高校を中退し、1955年に読売ジャイアンツに投手として入団します。当時は、野球選手としても規格外の大きさである上、脳腫瘍による失明の危機などに見舞われる悲運も重なり、これといった成績を残せないまま、1958年にジャイアンツを解雇されました。
1960年1月、大洋ホエールズのキャンプにテスト生として参加し、採用内定を受け、川崎市に転居するなど移籍準備を進めていたものの、宿舎の風呂場で転倒。左肘に17針を縫うケガをし、一時期、左手の第三指および第四指の関節が伸展出来ない状態が持続したため、プロ野球選手を引退しました。
その後も体力トレーニングを欠かさなかったジャイアント馬場は、当時人気絶頂だったプロレスの力道山を訪ねます。その場で、ヒンズースクワット100回を命じられたジャイアント馬場は、難なくこなしたことから、入門が即決まったそうです。
ジャイアント馬場の全盛期!華麗なアメリカンスタイルのプロレスで魅せた!
力道山に認められ、さっそくリングデビューしたジャイアント馬場。力道山は、ジャイアント馬場の底知れぬプロレスの才能を見抜き、デビュー翌年にはアメリカでの武者修行を命じます。
その巡業先であったニューヨークでつけられたリングネームが、ババ・ザ・ジャイアント。これが、ジャイアント馬場という名前の由来となりました。
1963年にアメリカから凱旋帰国したジャイアント馬場は、日本で全盛期を迎えます。師匠である力道山とタッグを組むだけでなく、キラー・コワルスキーや、パット・オコーナーなど超一流のレスラーと戦い、スケールの大きいアメリカンスタイルのプロレスでファンを魅了しました。
ジャイアント馬場は1963年に力道山が暴漢に刺されて不慮の死を遂げた後も、日本プロレスを支え続けましたが、その後、力道山の愛弟子アントニオ猪木との確執などもあり、日本プロレスを去ることに。1972年に全日本プロレスを立ち上げ、後輩プロレスラーを育成しながら、1980年代に至る全日本プロレスの黄金時代を築きました。
その前期は天才プロレスラーとして、その後期は敏腕プロモーターとして、ジャイアント馬場は、プロレス界で規格外のレジェンドとなりました。
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ジャイアント馬場とアントニオ猪木の関係!死後も愛され続ける偉大な存在
ジャイアント馬場とアントニオ猪木の関係!確執と表現しがたい絆と
日本のプロレスを語る上で、力道山の存在と、その愛弟子であるジャイアント馬場とアントニオ猪木の確執について避けて通ることはできません。ジャイアント馬場が、曲がりなりにも元読売ジャイアンツの注目選手で、力道山が見込んでスカウトしたスター選手ならば、アントニオ猪木は、力道山の付き人からスタートした苦労人でした。
ある意味、力道山から壮大なエンターテインメントとしてのプロレスを引き継いだのがジャイアント馬場で、底なしの欲望と裏切りが蠢く情念のプロレスを自ら築き上げたのが、アントニオ猪木といえるでしょう。また、お互いのプロレスのスタイルも正反対です。
ジャイアント馬場のプロレスが、鍛え抜かれた肉体から繰り出される華麗な技の応酬であるアメリカンプロレスならば、アントニオ猪木は、あくまでも技より強さにこだわるストロングスタイル。この2つのプロレススタイルがせめぎ合い、世紀末のフルコンタクトによる異種格闘技ブームや、近年の多彩でエンターティメント性豊かなプロレスを生み出す土壌となりました。
アントニオ猪木は、後にインタビューにてジャイアント馬場について「馬場さんは、あの体格で存在感はすごかった」と当時の印象について言及し、「馬場さんを合わせ鏡にして、俺自身がレスラーとしてどうあるべきかを考えた時に、見えてきた姿があった」と答えています。
アントニオ猪木は2020年9月に行われたデビュー60周年の記者会見において、「生きてないと思ったんだけど生かされてしまい、仲間たちも旅立ってひとり取り残されてしまった」と呟いています。
そこにはジャイアント馬場への想いもあったのでしょう。ジャイアント馬場とアントニオ猪木は確執ばかり注目されることもありましたが、実際の2人は本人達にしかわからない絆で繋がっていたのかもしれません。
ジャイアント馬場は死後も愛され続ける存在!
ジャイアント馬場は1999年に闘病生活の末、亡くなりましたが、死後も愛され続けている存在といえます。2019年2月に開催された、没後20年の追善興行では、かつてのライバルであったアントニオ猪木が登場し、明るく元気なオープニング挨拶をし、会場を盛り上げました。
没後20年のインタビューで愛弟子・秋山準は生前のジャイアント馬場について「たまに叱られても『お前は本当にアホやなあ』と言って、すぐにニコッとされる。最後に必ず笑顔があった」と語っており、弟子たちを心から可愛がっていたようです。
さかのぼること1998年1月23日、後楽園ホールで行なわれたジャイアント馬場の「還暦特別試合」でジャイアント馬場は、三沢、マウナケア・モスマンと組んで、川田、小橋、渕正信と対戦。対戦後、「体中に電気が走ったぞ。あれは痛いな」とコメントしていました。
上から目線になることなく、弟子たちの実力を認めていた馬場は、その弟子たちに「オレたちのスポンサーはファンだぞ。ファンを裏切っちゃいけない」と語っていたといいます。常にファンの存在を第一に考えていたジャイアント馬場。
これからも日本のプロレス界がその存在を忘れることはないでしょう。
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