原田芳雄は1970年代を代表する反体制的なワイルド俳優だった?!
原田芳雄は、1970年代の挫折を背負ったワイルドな俳優だった?!タモリとの交流からのぞく自由人の素顔
原田芳雄は、1970年代のシンボルとして、反体制的なアウトローのイメージがあります。しかしその実像は、反体制的というよりは、サブカルチャーをこよなく愛する自由人といったほうが正しいのかもしれません。
タモリが芸能界デビューしたばかりの頃から、新宿の飲み屋界隈で顔なじみであったらしい原田芳雄。タンクトップ姿で飲んでいた原田芳雄の後ろから、タモリが胸を揉みしだくのを、「タモちゃん、やめなさい」と笑っていなしていたとか。そんな2人に共通する趣味が「鉄道」。生前、原田芳雄の鉄道マニアな一面を見ることができたのは、34年続くテレビ朝日伝説の長寿番組「タモリ倶楽部」でした。
自らを流浪のロケ番組と称する「タモリ倶楽部」は、低予算ながら、タモリがホストとなって、大人たちの極めてマニアックな趣味や遊び場を紹介する番組です。今ではメジャーとなった鉄道ブームも、かなり早い時点からとり上げていました。
原田芳雄が出演した「タモリ倶楽部」神回「今夜語ろう!!原田芳雄 カシオペア乗車全記録」
原田芳雄が出演した「タモリ倶楽部」には、番組ファンや鉄道マニアから、今でも「神回」と賞賛されている放映回があります。それが、2009年6月20日に放映された「今夜語ろう!!原田芳雄 カシオペア乗車全記録」です。カシオペアとは、1999年から2015年まで運行されていた、上野~札幌駅間を、乗り換えなしで直結して走っていた寝台特別急行列車のこと。
当時、寝台特急カシオペアの人気は凄まじく、まさにプラチナチケットでした。このチケットを手に入れて乗車することができた原田芳雄と、すでに乗ったことがあるタモリが、まるで少年のように、微に入り細に入り嬉々としてカシオペアを語る姿は、まさに「遊びをせんとや生まれけん」。団塊世代によるサブカルチャー談義の極みでした。
原田芳雄・尾野真千子共演ドラマ「火の魚」は超傑作!あらすじネタバレ
原田芳雄が出演した「火の魚」はNHK広島が制作したローカルドラマだった
原田芳雄は、デビューから晩年まで、反体制的でワイルドなイメージが消えませんでしたが、晩年には、戦後日本を導いた宰相・吉田茂や、巨大商社の社長役も演じるようになりました。1970年代の原田芳雄を知る者にとっては、隔世の感があったものです。2009年に制作された「火の魚」では、原田芳雄は老作家役を演じています。
この作品は、NHK広島というローカル局制作ながら、平成21年度文化庁芸術祭の大賞や、第36回放送文化基金賞優秀賞、第50回モンテカルロ・テレビ祭のゴールドニンフ賞などに輝くなど、高い評価を得ました。
原田芳雄「火の魚」の主人公である老作家の人生は原田芳雄の生き様そのもの
原田芳雄は、ドラマ「火の魚」で、尾野真千子扮する若い女性編集者との交流を通じて、自由奔放に生きてきた老作家が、がんに侵され、老いや死に対する恐れや孤独感に苛まれる様子を見事に演じ切っています。まるで自分の人生とオーバーラップさせたかのような原田芳雄の演技には、理由がありました。この作品に入る1年前の2008年。原田芳雄は、実際に大腸がんで入院しています。
その時点で末期であることを宣言されながら、それを隠して一旦静養の後、仕事に復帰していたのです。原田芳雄の遺作は、映画「大鹿村騒動記」ですが、この映画の制作時にはもう、共演者やスタッフ誰もが、彼が病に侵されていることを知っていました。そういう意味で、役者としての本当の遺作は、このドラマ「火の魚」であったかもしれません。原田芳雄は、すでに死を自覚していた自分自身をこの老作家に託して、見事に演じ切ったからです。
原田芳雄が板尾創路にしたアドバイスは「ポルノは機会があったらやっとけ」
原田芳雄の、先輩後輩、老若男女、分け隔てない付き合いの輪は、大きな広がりとなっていきました。晩年の原田芳雄は、多くの若手俳優たちにとって憧れの的だったといいます。また、全く異なるジャンルから映画の世界に入ってきた者に対しても、映画や芝居を心から愛する者であれば、原田芳雄は助言を惜しみませんでした。たとえば、漫才コンビ130Rの板尾創路(いたおいつじ)。
デビュー当時から、独特の間と存在感で異彩を放ち、俳優として高い評価を得ているだけでなく、「脱獄王」や「月光ノ仮面」で、自ら監督も務めています。この多彩な板尾創路に対して、かつて、映画「ナイン ソウルズ」で共演した原田芳雄は、「ポルノは機会があったらやっとけ」とアドバイスしていたそうです。当時は、その意味が分からなかった板尾創路。しかし、かつての日活ロマンポルノを現代によみがえさせる「日活ロマンポルノ・リブートプロジェクト」第1弾「ジムノペディに乱れる」に出演した際、「男女がまぐわるのは滑稽でもあるし、感動的でもある。
いろんな感情になる表現は、普通の映画ではなかなかできない。原田さんが言っていた意味がよく分かりました」と、しみじみと語っています。原田芳雄は、1970年代以降、サブカルチャーとしての映画作りをけん引しただけでなく、彼の後に続く、多くの新人俳優やスタッフを育てた、偉大な映画人といえましょう。