広岡浅子「あさが来た」と「花子とアン」村岡花子とのいい関係!

広岡浅子「あさが来た」と「花子とアン」村岡花子とのいい関係!

広岡浅子「あさが来た」と「花子とアン」村岡花子の出会い、関係は?

広岡浅子は、明治時代の実業家。広岡浅子をモデルにしたNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」と、「花子とアン」のヒロインモデル・村岡花子には、生前とても良い関係がありました。

幕末期の混迷から、嫁ぎ先の加島屋の危機を救い、加島銀行を設立、続いて大同生命創業に大きく関わった広岡浅子。加島屋立て直しの策として、新たな活路を求めた九州筑豊地方の炭鉱経営では、女だてらに炭鉱夫の中で起き伏しを共にする豪傑さが評判に。

また、広岡浅子は、日本発の女子大学である、日本女子大学校の設立にも奔走しました。それ以来、女性運動支援にも尽力し続けた広岡花子。静岡県御殿場の避暑地に、有能な女性ばかり20名を集めて毎年開催するようになったのが”夏の勉強会”です。

広岡浅子が逝去する1914(大正3)年の前年まで続けられたこの勉強会に、婦人矯風会の千本木美智子や小橋三四子の紹介で参加するようになったのが「花子とアン」の村岡花子だったのです。

広岡浅子「あさが来た」と「花子とアン」村岡花子、勉強会のある教えが人生を変えた

広岡浅子が勉強会で説いていた「小生(自分のためにしたいこと)に固執せずに、真我(社会のために為すべきこと)を見つけなさい」という教えに、強く感銘を受けた村岡花子。また、広岡浅子の「婦人参政権の必要性」をテーマにした演説にも共感を持った村岡花子は、「思想より先に、若者の心を耕すべき」という自らの目的を見出していきます。

こうして村岡花子は、後に児童文学作家・翻訳者として、”世の中に英米の青春読み物を紹介する”という使命を全うしていくのです。広岡浅子「あさが来た」と「花子とアン」村岡花子の”夏の勉強会”での出会いがなかったら、近年親しまれている「赤毛のアン」などの数々の名作に、我々が触れることはなかったかもしれません。それにしても、別々の作品として観ていた朝ドラ「あさが来た」と「花子とアン」が繋がっていたなんて、ちょっと素敵な話ではありませんか?

広岡浅子の姉・三井春や家族、子孫の運命は?

広岡浅子の姉・三井春や家族、ドラマとは違う本当の末路は?

広岡浅子の生涯と家族の生き様を描く、NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」では、ヒロインの姉は”はつ”として描かれていました。凛として美しく、嫁ぎ先に馴染めず苦労するも、夫と共に、幕末から明治への危機から新たな幸せを見出す……そんな設定です。

しかし、実際の広岡浅子の姉・三井春の運命は、もっと壮絶なものだったよう。異母姉妹として後に三井家に入家してきた姉・三井春は、広岡浅子と共に大阪へ嫁ぎました。ところが、姉・三井春の嫁ぎ先であった大阪を代表する老舗両替商天王寺屋は、明治維新以降の銀目廃止令や廃藩置県で破たんし、間もなく廃業に追い込まれたそうです。

その心労が祟ったためか、広岡浅子の姉・三井春は27歳という若さで病死しています。また、実父・三井高益は、広岡浅子が生まれた頃にはすでに隠居しており、2歳になった彼女を育てたのは、実父の養子であった三井高喜だったと言われています。

この人物は三井銀行創立時の重役であり、その後、長く三井家を支えました。また、愛弟・三井高景は、広岡浅子の養女を娶り、アメリカ留学を経て、三井財閥を支える重要な人物になっていきました。日本女子大学校設立の際には、広岡浅子のよき理解者、協力者として尽力したそうです。

広岡浅子の1人娘・広岡亀子、子孫の運命は?

広岡家には、明治9(1878)年、16年、17年、18年と女児が生まれました。そして、加島銀行誕生の明治21(1890)年に、初の男児が生まれた松三郎は、後の大同生命保険4代目社長に就任します。ただし、広岡浅子が出産したのは、明治9(1878)年に生まれた広岡亀子だけ。

他の子供は、夫・信五郎と、三井家から広岡浅子と共にやってきた女中のムメとの間に生まれました。広岡亀子が生まれた頃は、ちょうど加島屋立て直しに奔走していた時期。加えて、相当の難産だったために、広岡浅子は、それ以降は子供を作らず、経営者として専念するようになったそうです。

一人娘ということで、広岡浅子が並々ならない愛情を注いだ広岡亀子。後に一柳家子爵・恵三を婿養子にとり、一男四女に恵まれます。恵三は、信五郎の死後に加島銀行に入社し、広岡浅子の事業を継承。大同生命2代目社長に就任して、長く辣腕を振るいました。この2人の息子・喜一は、大同生命の取締役を務めていましたが、同社が広岡家の手から離れてから昭和恐慌の煽りで加島銀行も倒産。その後の広岡浅子の子孫の詳細は不明です。

広岡浅子の「九転十起生」に込められたメッセージ

広岡浅子の波乱万丈な生涯が注目される、現在放送中のNHK朝の連続ドラマ「あさが来た」も7週目が過ぎ、物語は、広岡浅子の「最大苦心の時代」炭鉱編へと突入しています。ピストルを忍ばせ、「負けしまへん!」と、炭鉱の猛者どもを叱咤するヒロインの姿。これは劇中の架空ではなく、実在の女性がやっていたのかと思うと胸が熱くなります。

坊ちゃん育ちで「YESマン」だった夫・信五郎に代わって、独学で数字を学び、激動の幕末期の銭戦場に向かって出た広岡浅子。あの新選組との貸借関係をも堂々と渡り合いました。加島屋が、例にもれず、明治維新の制度改編の煽りを食らって苦境に立たされた時も、創業した加島銀行が倒産の危機に陥った時も、肺病や乳がんを患ったり、恨みによる刺傷で瀕死の重傷を負った時も、広岡浅子には「七転八起」を超える「九転十起生」という座右の銘があったのです。

そんな広岡浅子だからこそ、日本女子大学校設立時には、大隈重信や伊藤博文、五代友厚などの名だたる要人たちが手を差し伸べたのでしょう。まさに現代で言うところの「ゴッド姐さん」ではないでしょうか。

11月9日に神戸大学の公開講座で公表された、”新たに発見された「加島屋」資料”の中にあった書簡類からは、「融資を引き受けるだけではなく、有力大名に、自ら取引をアプローチする」という広岡浅子のアグレッシブな実業家手腕を伺い知ることができます。これは単なる経済学の歴史研究のみならず、私たち自身の生き方へのメッセージとして胸に刻んでおく必要がありそうです。

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