2017年3月6日 更新
池部良が渋すぎる!高倉健主演映画「昭和残侠伝」への出演のエピソード!
池部良がいなければ成り立たない「昭和残侠伝」男の美学
池部良という名を聞いて、即、風間重吉の粋な着流し姿と「唐獅子牡丹」が聞こえてくるのは、団塊の世代でしょう。「仁義渡世は男の闇か、闇と知ってもなおドス暮らし!」なんて惹句で彼らを虜にしたのが、高倉健を一躍スターダムに押し上げた「昭和残侠伝」シリーズです。
映画の舞台は、戦後間もない日本。義理も人情もわきまえない新興暴力団の卑劣な悪行三昧に、我慢を重ねた、昔かたぎの渡世人・秀次郎が、長ドス引っさげ、たった独り、悪人どもに殴り込みをかけるという、極めてワンパターンな勧善懲悪物です。1965年から1972年にかけて、全9作が制作されました。映画のクライマックスになると、秀次郎が殴り込みの道すがら、物陰からスッと現れて、「ご一緒、願います」とたった一言助っ人を申し出るのが、池部良演じる風間重吉です。
やくざ渡世の義理に阻まれ、敵対せざるを得なかった男同志が、目と目で交わす男の契り。ここでドーンと聞こえてくるのが、「唐獅子牡丹」のテーマ曲です。映画館では、観客の大歓声が巻き起こり、大向こうから声が掛かったといいます。学園紛争では、「造反有理」と大学の旧体制を批判していた学生たちが、任侠映画という極めて日本的なカタルシスに酔いしれていたというのも、極めて70年代的な現象でした。
池部良が「昭和残侠伝」出演をめぐって出した、意外な出演条件
池部良は、戦前から活躍した日本を代表する二枚目俳優です。戦後も、「青い山脈」などの文芸作品に数多く出演した知的で都会的な俳優でした。また、映画俳優協会の会長も務めており、会長として、映画俳優と暴力団との完全絶縁も表明しています。池部良は最初、「昭和残侠伝」シリーズへの出演に難色を示したそうです。
しかし、東映任侠映画の大物プロデューサー俊藤浩滋(しゅんどうこうじ)が、まるでヤクザ映画の義理と人情そのままに池部良をかき口説き、意気に感じた池部良は、出演を了解します。しかし、夫人の猛反対にあった池部良。出演にあたって、入れ墨を入れないこと、毎回殺されること、ポスターでの露出を小さくすることを出演の条件にしたそうです。
池部良は立教大学出身!戦争に翻弄された俳優人生!
池部良、立教大学卒の陸軍中尉がさまよった地獄の南方戦線
池部良は、1918年生まれで、2010年、92歳で天寿を全うしました。1940年に立教大学を卒業し、監督志望で東宝に入社しますが、助監督の空きがなく、当時、子役の大スターだった中村メイコの子守りを命じられます。その中村メイコが、池部良の図抜けた男前ぶりを大絶賛し、俳優としてデビューすることに。しかし、太平洋戦争が勃発し、池部良は、幹部候補生として、中国山東省から南方戦線へと送られます。
ところが、輸送船が敵の襲撃を受けたことから、海に投げ出された池部良は、10時間も海上を漂ったあげく、輸送船に助けられてインドネシア北東部のハルマヘラ島へ配属。激しい米軍の攻撃にさらされながら、部下とともにジャングルに逃げ込んだ池部良は、この島最後の指揮官として戦い抜いて部下を守り、陸軍中尉として終戦を迎えます。
池部良が戦後30歳をすぎて俳優に復帰した「青い山脈」の役は高校生だった!
なんとか日本へ帰還した池部良は、腸チフスに罹り、茨城県の山村に引っ込んでいましたが、東宝や、高峰秀子など多くの俳優仲間に勧められ、俳優に復帰します。しかし、東宝では組合闘争が勃発。池部良は、またもや理不尽で不毛な戦いに巻き込まれてしまいました。池部良は、身長175cm、知的で甘いマスク、スマートなその佇まいで、俳優復帰後まもなく、戦後日本を象徴する男性俳優として大人気となります。
中でも、1949年に公開された映画「青い山脈」での男子生徒役が有名ですが、池部良は、この時すでに30歳を越えていました。「死に損ないを3度もして復員してきた陸軍中尉の僕に至っては、よくも、あんなのんびりした顔ができたもの」と、さすがに本人も照れ臭かったようです。
池部良は、その後も、「雪国」や「暗夜行路」など文芸路線に数多く出演。1964年には、「乾いた花」でヤクザ役を演じ、新境地を開きます。また、多くの俳優から慕われた池部良は、日本映画俳優協会会長にもなりました。1965年には東宝を離れ、自らのプロダクション「池部プロダクション」を作りますが、どうやら経営者としてはだめだったようで、2年で倒産してしまいます。
この独立と同時期、50歳を前にした池部良は、「昭和残侠客伝」に出演。枯れた渡世人の役が、ピッタリとはまりました。池部良は、その後も長く1990年頃まで、映画やテレビで活躍していきます。歳を重ねても、そのスマートでダンディな二枚目ぶりは、決して衰えることがありませんでした。
池部良が晩年書いたいぶし銀のエッセイ集「風が吹いたら」
池部良は、69歳で初めてエッセイ集を出版しました。タイトルは「風が吹いたら」。自身の戦争体験や性にまつわる話などを、淡々飄々と紡いだ文章は、高く評価されています。文豪の志賀直哉とも親交があった池部良が、「池部君、女ってものはキレイなもんだと思うかい?」と志賀直哉に問われ、しどろもどろになって交わす女性論は、世代を問わず、恋する男性必読です。
以後、続編が数冊も出版され、毎日新聞に連載していた「そよ風ときにはつむじ風」では「日本文芸大賞」を受賞しています。2015年夏には、東京のラピュタ阿佐ヶ谷で、「風のように 映画俳優・池部良」が開かれ、33本の出演作品が上映されました。戦前のデビュー作は1941年の「闘魚」で、戦後になると、「青い山脈」「坊ちゃん」「雪国」「暗夜行路」などの文芸路線で、正統派二枚目俳優としての地位を確立。
また1964年には、「乾いた花」では、虚無感漂うヤクザ役にて新境地を開きました。この作品が東映プロデューサー俊藤浩滋の目にとまり、三顧の礼で「昭和残侠伝」の出演を請われます。この他にも、池部良は、山口淑子との濃厚なキスシーンが話題になった悲恋ストーリー「暁の脱走」や、東宝特撮物「妖星ゴラス」など、幅広く数多くの作品に出演しました。どの作品を見ても、その美男ぶりが際立っていた池部良は、まさに昭和を代表する二枚目俳優といえるでしょう。