奥野史子の旦那は朝原宣治!シンクロ時代、小谷実可子の間に確執が?!

2018年10月25日 更新

奥野史子の旦那は朝原宣治!実家は呉服店?

奥野史子の旦那は元陸上競技選手の朝原宣治!子供は?

元女子シンクロナイズドスイミング(現在の競技名称はアーティスティックスイミング)選手の奥野史子は、現在タレントやスポーツコメンテーターとして活動しています。

ソロ、デュエット共に、これまで数々の大会で成績を残してきた奥野史子は、1995年1月に現役を引退。それから7年後となる2002年に、元陸上競技選手の朝原宣治と結婚しました。旦那とは同志社大学の同級生という間柄で、在学中に同じゼミで隣に座ったことがきっかけで知り合い、その後交際に発展したそうです。奥野史子が現役を引退して落ち着いたとされる頃合いを見計らって、長い交際期間を経てゴールインしました。

結婚当時、旦那の朝原宣治は日本代表として短距離走や走幅跳で活躍しており、2008年の北京オリンピック男子4×100mリレーでは銀メダルを獲得しています。2003年4月に長女、2006年7月に長男、2011年7月に次女が生まれ、今では一男二女3人の子供を持つ母親になった奥野史子。夫婦揃ってメダリストというトップアスリートのDNAを継いで生まれてきた子供たちがもしスポーツをしていたら……、近い将来、その名前を目にすることになるかもしれませんね。

奥野史子の実家は呉服店?!三姉妹の末っ子として育つ

奥野史子は京都府出身です。実家は京都市中京区にある呉服屋で、三姉妹の末っ子として生まれた奥野史子は、姉たちと共に4歳の時から京都市にある水泳教室に通い始めました。中学生になると、シンクロナイズドスイミング界の母とも言われる井村雅代が代表を務める「井村シンクロクラブ」に入り、本格的な指導を受けるように。「井村シンクロクラブ」には奥野史子だけでなく、2人の姉も一緒に通っていたそうです。3人分のスクール費となると安くはないはずなので、奥野史子は経済的に余裕のある家庭で育ったと考えてよいでしょう。

奥野史子のシンクロナイズドスイミングの成績は?小谷実可子の間に確執が?!

奥野史子のシンクロナイズドスイミングの成績は?日本人初の銀メダルを獲得

高校時代には、シンクロナイズドスイミングが初めて正式種目に選ばれた国体で優勝した奥野史子。同じく高校在学中だった1989年には、三大大会の1つFINAシンクロワールドカップ・パリ大会で、日本チームの一員として銅メダルを獲得しました。

同志社大学進学後は、2年生の時に出場した1992年のバルセロナオリンピックでソロ、デュエット共に銅メダルを獲得。しかし、1993年のワールドカップ・ローザンヌ大会では、チームとしては3位入賞を果たしたものの、ソロとデュエットでメダルを逃してしまいます。翌1994年に行われた世界選手権ローマ大会は、復活の舞台になりました。それまでの常識を覆すような「笑わないシンクロ」を披露した奥野史子は、ソロ史上初となる芸術点オール満点という快挙を成し遂げ、銀メダルを獲得。ファンの間では、現在もこの時の演技が「伝説の演技」と語り継がれています。

まさに日本のシンクロナイズドスイミング界をけん引してきた奥野史子ですが、1995年1月、22歳の時に腰痛の悪化を理由に現役引退を表明しました。とはいえ、引退後も奥野史子の快挙は止まることはなく、今度はシルク・ドゥ・ソレイユで才能を発揮するようになっていきます。2001年10月にシルク・ドゥ・ソレイユのオーディションに挑んだ奥野史子は、同じ元日本代表の河辺美穂とともに見事合格!日本人初のシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして、2002年10月の公演まで出演していました。

奥野史子と小谷実可子の間に確執が?!バルセロナオリンピック代表争いの結果は

奥野史子と同様、かつてシンクロナイズドスイミング界で一時代を築き上げた選手に小谷実可子がいます。年齢的には小谷実可子のほうが6歳年上の先輩ですが、同じ時代に活躍していた2人の間には確執があると噂されていました。

1992年のバルセロナオリンピック前の様子を振り返った小谷実可子は、デュエットのメンバー候補を奥野史子と小谷実可子、高山亜樹の3人で争っていた当時、たしかに「3人の雰囲気は最悪だった」と明かしています。精神的にも辛いしのぎ合いを経た結果、バルセロナオリンピックのデュエットで外されたのは小谷実可子となりました。そのデュエットとソロの2種目で、日本代表は銅メダルを獲得するという快挙を遂げています。

このように、代表の座を争い合う中で雰囲気が悪くなっていったのは事実のようですが、それは頂点を目指して真剣に切磋琢磨し合える関係だからこそ。若さゆえという部分もあったでしょうが、なによりも、それほどの勝気さがなければ日本代表として世界と互角には戦えないはずです。

奥野史子が豪雨被災地の児童にアーティスティックスイミングを指導!

奥野史子は2018年8月20日に岡山県倉敷市にある瀬戸内市邑久B&G海洋センターを訪れ、子供たちにプールアクティビティを指導しました。倉敷市は、7月に起こった未曾有の豪雨災害で被災した地域です。奥野史子が参加したこのイベントの目的も被災した地域の子供たちの心のケアで、倉敷市やその周辺に住む小学校3~6年生の計13人がアーティスティックスイミングに挑戦するという内容でした。奥野史子による実演が行われた他、参加者を直接指導する時間も設けられたので、子供たちにとって貴重な夏の思い出となったことでしょう。

奥野史子は現役引退後、スポーツコメンテーターとしてのテレビ出演などと並行させながら、こうした地域の復興のイベントにも積極的に参加し、社会貢献活動に取り組んできました。また、スポーツや教育関連のシンポジウムでパネリストを務めたり、京都市教育委員や京都市文化芸術都市創生審議会委員等の公職に就いたり、びわこ成蹊スポーツ大学の客員教授に就任したりと、活動は多岐に及びます。

その他にも、小児がんと闘う子供たちへの支援を集めるためトライアスロンに挑戦。さらに、旦那の朝原宣治らが中心になって設立したアスリートネットワークには、副理事長として参加しています。過酷ながら実りも多かった競技人生に幕を下ろし第2の人生を歩む奥野史子は、これまでの競技経験や自らの知名度を大いに生かしながら社会と繋がり、より豊かにするためにまい進中です。

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