真田幸村(真田信繁)の名言集!「真田丸」とは何のこと?最期の戦いは?

真田幸村(真田信繁)の名言集!「真田丸」とは何のこと?

真田幸村(真田信繁)の人柄を示す名言集!

真田幸村(真田信繁)といえば、歴史的には敗者でありながら、大坂冬の陣と夏の陣で豊臣方につき、徳川家康を追い詰めたことで知られる戦国時代最後の名将。忠誠心高く、実直な人物として、多くの歴史ファンを虜にしてやまない真田幸村(真田信繁)は、その人柄を表す多くの名言を残しています。

その一つ、「恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか」は、関ケ原の戦いで莫大な報酬をちらつかせて真田幸村(真田信繁)を味方に付けようとした東軍ではなく、平素から可愛がってくれた豊臣秀吉の西軍につくことを選択した時の言葉。この名言から、真田幸村(真田信繁)の欲にかられることない、義理人情の厚さがうかがえますよね。真田幸村(真田信繁)最期の戦いとなった大坂夏の陣の直前には、「定めなき浮世候へば、一日先は知らざる事に候」。

つまり「乱世において明日の自分がどうなるか分からない」と言っています。おそらく、真田幸村(真田信繁)は、豊臣の劣勢から厳しい戦いを予見していたのでしょう。それでも大坂夏の陣の「譽田の戦い」では、撤退する豊臣軍の盾になるべく、大軍を前にしんがりを見事に務め上げた真田幸村(真田信繁)。そして「関東勢百万も候へ、男は1人もいない」という言葉から、男らしい豪気を感じますよね。

真田幸村(真田信繁)の「真田丸」は砦だった!新説浮上に深まる謎

真田幸村(真田信繁)を題材にしたNHK大河ドラマ「真田丸」が、2016年に放送されます。「真田丸」とは、関ケ原の合戦で、ほぼ天下を手中に入れた徳川家康が、豊臣家滅亡を図った「大坂冬の陣」で、真田幸村(真田信繁)が築いた土づくりの砦のこと。三日月形の「真田丸」に、六文銭の旗印を掲げ、わずか3500の軍勢で、徳川本陣まで攻め入ったと言われています。

また、この出城には、篭城戦を避けるべきという意見が聞き入れられなかった真田幸村(真田信繁)が、弱点であった大坂城南方の補強のために講じた、せめてもの策だったという説も。ところが、最近になって、大坂城と「真田丸」の間には塀だけではなく崖があったという新説が浮上しています。

しかも起伏の激しい地形にあったため、防御の必要性はなかったのではないかというのです。では、なぜ真田幸村(真田信繁)は、そこに「真田丸」を築いたのでしょうか。新説では、あえて孤立無援の地に出城したのは「防御」ではなく、むしろ敵を誘導し接近戦に持ち込む「攻撃」のためだったと推測。豪気な真田幸村(真田信繁)には、こちらのほうが似合ってますね。

真田幸村(真田信繁)の最期とは?墓や子孫は?

真田幸村(真田信繁)の最期の戦い、大坂夏の陣「わしのクビを手柄にされよ」

真田幸村(真田信繁)は、大坂冬の陣では、徳川軍が20万、豊臣軍は10万という、数では明らかに劣勢を極める中、鉄砲隊を駆使した「真田丸の戦い」によって、徳川軍を撤退させました。この戦いで、真田幸村(真田信繁)の武名が、初めて天下に知れ渡ることになりました。

冬の陣の両軍和平講和で「真田丸」が取り壊された後も、叔父から徳川家康に寝返るように説得されながらも、真田幸村(真田信繁)は、豊臣家に忠義を尽くし続けます。そして迎えた大坂夏の陣。徳川軍15万5千に対し、7万の兵力したもたない豊臣軍は、城を捨てて野戦に出ました。

しかし、野戦となると、多勢に無勢。一度は徳川本陣まで迫った真田隊も、四天王寺近くの安居神社に撤退。境内で傷の手当てをしていた真田幸村(真田信繁)は、越前松平隊の西尾仁左衛門に発見され、槍で殺されてしまったのです。「わしの首を手柄にされよ」と言い遺して散った真田幸村(真田信繁)は、享年49歳でした。

真田幸村(真田信繁)の墓は?子孫はテレビ出演している?

真田幸村(真田信繁)は、大坂夏の陣で首を取られはしたものの、徳川方から「真田日本一の兵」と称賛されるほどの戦国武将でした。真田幸村(真田信繁)に魅了された人々は、真田幸村(真田信繁)の遺髪一筋すら取り合ったのだとか。そのためか、真田幸村(真田信繁)の遺骨をおさめた墓というものは存在しません。

しかし、京都や大阪、東北から九州まで、全国各地に真田幸村(真田信繁)8つの供養墓や供養塔があり、今も多くの人々が参詣しています。子孫については、大坂城落城と共に真田幸村(真田信繁)の血脈は絶えていたと思われていましたが、真田幸村(真田信繁)の次男らは、伊達政宗の家臣であった片倉重長に保護され、元服後に片倉姓を名乗って生きていたのです。

そして、その次男の息子が真田姓に復した仙台・真田家は、現在に渡って、唯一公式に残る真田幸村(真田信繁)の子孫として存続しています。現当主は14代目・真田徹。東京在住で、建設会社退職後は、真田幸村(真田信繁)の末裔として、全国の講演やテレビ出演、観光イベントに出席するなど多忙な日々を送られているようです。

真田幸村(真田信繁)の真実は?2016年NHK大河ドラマ「真田丸」が熱い!

真田幸村(真田信繁)は、その心構えを象徴したかのような、朱色に塗られた十文字槍、厚い志をにじませた超イケメン……。遺された史実が少ない人物であるにも関わらず、熱狂的なファンの多い真田幸村(真田信繁)は、ゲームや漫画でそのように描写されることが往々にしてあります。しかし、実際は、当時としては年相応の風貌で、「大坂冬の陣」の際は、歯もボロボロ、白髪だらけだったそうです。しかも、いかにも萌え感たっぷりの「幸村」という名前すら後世に出てきたもので、その由来には諸説あります。どうやら、真田幸村(真田信繁)は、のイケメンイメージは、あくまでも真田幸村(真田信繁)の英雄性や心意気を具現化しものということのようですね。
来たる2016年は、そんな謎多き真田幸村(真田信繁)イヤー。堺雅人主演のNHK大河ドラマ「真田丸」が、1月10日からスタートします。脚本が三谷幸喜ということで軽い印象を抱きがちですが、以前、三谷幸喜が手掛けた「新選組!」の高評価もあり、テンポの良い身近な作品になるに違いありません。しかも、武田・真田研究において右に出る者はいないと称される歴史学者・平山優が、緻密な時代考証を担当。それにしても、いくらイケメンで演技力が高いとはいえ、稀代の勇敢な英雄である真田幸村(真田信繁)が堺雅人?と首をひねる人もいるかもしれません。しかし、実直と忠実を以て、敵のみならず大阪の地では派閥や無能な権力者に対して奮闘した熱い男・真田幸村(真田信繁)のことを、兄・信之は「柔和で辛抱強く、物静かで怒るようなことはなかった」と記しています。よって、静と動を併せ持った俳優・堺雅人のキャスティングは、緻密に計算された結果といえるのでしょう。

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