梓みちよと明石家さんまの騒動とは?結婚、離婚を経て不倫生活していたお相手とは

2020年3月6日 更新

梓みちよと明石家さんまの騒動とは?現在は化粧品をプロデュース!

梓みちよが明石家さんまに激怒!それが原因で干された?!

梓みちよは、1960年代の日本歌謡界に彗星のごとく現れた歌手。「さんまのまんま」に出演した際、梓みちよは収録中に計5回も明石家さんまにシャンパンを浴びせました。大ヒット曲「二人でお酒を」や「メランコリー」のタイトルを思い出せない明石家さんまに対し、「好きだったら思い出せるはず」ときつく詰め寄る梓みちよ。そして、ついに「知らんわ!」と白状した明石家さんまの顔にシャンパンを浴びせました。

その他にも、オンエアはされなかったものの、当時噂となっていた東尾修との不倫生活について明石家さんまに突っ込まれてさらに激怒したとか。番組放送後には、視聴者からの苦情の電話が殺到したと言い、ちょうどこの頃からテレビで見かけなくなったことから「騒動によって芸能界から干された」という烙印まで押されることに……。

後に、梓みちよが明石家さんまに謝罪して和解したことから、この騒動は「さんまのまんま」名場面集として何度も取り上げられる名シーンになりました。「干された」という噂も、真相は、ディナーショーの繫忙期と重なっただけのようです。

梓みちよが化粧品「梓プラチナローズジェル」をプロデュース!

昭和の歌謡曲を特集する歌番組や、自身の人気曲を織り交ぜたディナーショーで、現在も歌手として精力的に活動している梓みちよ。そんな梓みちよは、新たな分野でも成功をおさめています。それが、かねてからの夢であったという化粧品のプロデュースです。

若い頃から芸能界で仕事をしてきた梓みちよにとって、化粧品にまつわる悩みは尽きないものでした。舞台メイクを落とすたびにひどい乾燥に悩まされてきた梓みちよは、自身の経験から化粧品「梓プラチナローズジェル」をプロデュースします。

「梓プラチナローズジェル」は、化粧水、乳液、美容液、クリームの役目を果たすオールインワンジェルで、顔だけではなく全身にも贅沢に使えることもセールスポイント。梓みちよは、湯船につかっている間に、ジェルを顔とデコルテに塗ってパックとして使用するという美肌術も紹介しています。

梓みちよの「メランコリー」ほか人気曲は?結婚、離婚を経て20年以上も不倫生活していたお相手とは

梓みちよは宝塚音楽学校出身の実力派歌手!「メランコリー」ほか人気曲について知りたい!

1943年6月4日、福岡県出身の梓みちよは、福岡女学院高等学校の1年生を修了後、宝塚音楽学校へ入学。宝塚音楽学校で音楽のレッスンを受け、在学中に渡辺プロダクションのオーディションに合格したことを機に上京します。1962年に、「ボッサ・ノバでキッス」でキングレコードからデビューした梓みちよ。

翌1963年には、作詞に永六輔、作曲に中村八大という当代きっての売れっ子コンビを迎えてリリースした「こんにちは赤ちゃん」で100万枚を超える大ヒットを記録しました。こうして一躍有名歌手の仲間入りを果たした梓みちよは、大人路線にイメージ転換を図り、1974年の「二人でお酒を」で再び大ヒット。

1976年に発表した吉田拓郎作曲の「メランコリー」は翌年まで売れ続けるロングヒットとなり、レコード会社を移籍した1979年リリースの「よろしかったら」など、さらに人気曲を増やしていきました。

梓みちよが結婚、離婚を経て20年以上も不倫していたお相手とは?

デビュー当初から清純派をウリにしていた梓みちよは、実のところ、10代で飲酒や喫煙を行うなど、世間のイメージとは真逆の素顔を持っていました。そのため、会社の求めるイメージと真の姿との矛盾に悩んでいた梓みちよに、結婚という転機が訪れます。

しかし、1971年に俳優の和田浩治と結婚した梓みちよは、翌1972年にあっさりと離婚。週刊誌のインタビューでは、「あの人はせいぜい同棲までの男だった」と元夫を罵倒しました。もちろん和田浩治も黙ってはおらず、梓みちよの離婚劇は泥沼化していくことになります。

その後、梓みちよの交際相手だと報じられたのは、元プロ野球選手の東尾修でした。妻子のいた東尾修とは不倫関係ということになりますが、交際は20年以上にもわたって続いたとも伝えられています。とはいえ、ライオンズの名ピッチャーとして名を馳せ、球界屈指のプレイボーイであった東尾修は関係を問われてもずっとノーコメント。対する梓みちよは、「大人の関係」と不倫を認める大胆な発言をして世間を驚かせました。

梓みちよの恩人・永六輔が「こんにちは赤ちゃん」と一緒に贈った言葉とは?

永六輔とのエピソード

日本歌謡界をけん引してきた作詞家・永六輔の訃報に際して、梓みちよはこう語りました。人気曲「こんにちは赤ちゃん」の作詞を担当した永六輔に、梓みちよは、「母親でもないのにどう歌ったら良いか分からない」と訴えました。すると永六輔は、「女性はみんな母性本能があるものなんだ。胸に玉のような可愛い赤ちゃんを抱いているのを思い浮かべて歌えばよい」とアドバイスしたと言います。

永六輔が贈った言葉を、昨日のことのように覚えていると言う梓みちよは、「永さんなしでは、梓みちよという歌手は存在しなかった」と。清純派のイメージそのものであった「こんにちは赤ちゃん」を歌うことを封印した時期もあったという梓みちよですが、歌の良さを深く理解した今は、自身のコンサートなどでもよく歌っているそうです。

中尾ミエとの関係

TOKYO MXのバラエティ番組「5時に夢中!」で、梓みちよ絡みの悩みを告白したのは中尾ミエです。年代も近く、同じ時期に活躍していた中尾ミエは、「『こんにちは赤ちゃん』よく聴いていました」と、梓みちよと間違えられることがあるとか。

梓みちよと中尾ミエは、デビュー当時に同じ渡辺プロダクションに所属しており、下宿先も同じだったことから取っ組み合いの喧嘩をすることもあった仲。喧嘩するほど仲が良いと言いますが、2人のライバル関係は今なお続いているのかもしれません。

昭和の歌謡界で数々の人気曲を歌い確固たる地位を築いた一方、私生活では、結婚後の泥沼離婚劇に加えて、東尾修との不倫など、週刊誌を賑わせることもあった梓みちよ。現在はプロデュースした化粧品の売れ行きも好調で、実業家として優れた手腕も見せています。たとえ批判を浴びながらも、己の道をたくましく生き抜いてきた梓みちよは、より自由な人生を手に入れた今、ますます輝いていくことでしょう。

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