山本浩二は守備、ホームランともレジェンドな成績!衣笠祥雄との「YK砲」で広島カープ黄金期を支えた
山本浩二は1980年代のホームラン王!「ミスター赤ヘル」は守備もレジェンド級だった!
広島カープ黄金期の名選手といえば、皆さんは誰が思い浮かべますか?豪快なフルスイングの鉄人・衣笠祥雄や、俊足のトップバッター高橋慶彦ら多士済々ですが、真っ先に「ミスター赤ヘル」山本浩二の名を挙げることに異論のある人はいないでしょう。
1980年代のホームラン王として君臨し、カープ打線で4番の重責を務め上げた実績は、今やレジェンドとして語り継がれています。ホームランバッターとして覚醒したのは30代に入ってからという、いわゆる大器晩成型の山本浩二。入団当初は、「長打も打てる中距離ヒッター」という評価で、強肩を売り物にした名外野手として知られていました。この時点では、球界を代表するホームランバッターに変貌を遂げるとは誰も思わなかったのではないでしょうか。
1968年のドラフト会議で、山本浩二は、入団を熱望していた地元球団の広島から1位指名を受けてプロ入りしました。当初は中距離ヒッターでしたが、年々打撃力をつけ、1975年途中から4番に定着すると、カープ悲願のリーグ優勝に貢献。以降、1986年に現役引退するまで、カープ黄金期の大打者として活躍を続け、「ミスター赤ヘル」のニックネームで絶大な人気を誇ります。
バッティングばかりに目が行きがちですが、強肩を利した外野守備力も傑出していた山本浩二は、高い技術に裏打ちされた捕球や、正確な送球にも定評がありました。外野手として残した成績もレジェンドクラスで、通算4637刺殺、通算154補殺、通算4830守備機会は、それぞれセ・リーグ記録となっています。
守備機会の多い割にエラー数は少ないことからも、外野守備でも屈指の能力を誇るプレーヤーだったことが分かるでしょう。しかも、足も速かった山本浩二は通算231盗塁を記録。11年連続でシーズン2桁盗塁を記録するなど、走攻守に秀でた4番打者という異色の存在でした。山本浩二は、守備と走塁を重視していた当時のカープの象徴的な存在だったことが分かります。
山本浩二と衣笠祥雄の「YK砲」アベックアーチはONに次ぐ86回!
山本浩二とともにカープ黄金期を支える両輪となったのが、「鉄人」衣笠祥雄でした。ともにカープ打線で中軸として君臨し、巨人軍の長嶋茂雄や王貞治に比すべきレジェンドとして語り継がれています。「ON砲」(王貞治・長嶋茂雄)の向こうを張り、名付けられたのが「YK砲」。アベックホームランは、本家ON砲の106回に次いで、86回で歴代2位となっています。
入団当初の両者は、決して仲が良かったわけではなく、グラウンド外では別行動でした。しかし、古葉竹識監督の「カープが強くなるために、V9巨人のONのような存在になって欲しい」という言葉を受け、1975年のシーズンからは両雄としてチームを牽引する存在になります。
象徴的なシーンとなったのが、その年のオールスターゲーム第1戦でした。セ・リーグの3番に座った山本浩二は2打席連続ホームランを放ち、6番を打った衣笠祥雄と、2打席連続アベックアーチの競演を披露しています。このように、カープでツートップを張る存在だった山本浩二と衣笠祥雄。「ミスター赤ヘル」が君臨したのも、「鉄人」の存在があったからこそ。「とにかく、試合でも練習でもキヌ(衣笠祥雄)には負けたくなかった。ワシが成績を残せたのはキヌのおかげや」と、本人も認めています。
山本浩二の広島監督時代の成績は?嫁との離婚は根も葉もないこと
山本浩二の引退理由は腰痛の悪化?広島監督時代はリーグ優勝1回!
山本浩二の現役引退は1986年、40歳になるシーズンでした。プロで名を成した大選手でも、現役晩年は出場機会が減少したり、成績が下降傾向に入ったりするものです。しかし、山本浩二の場合は、126試合に出場して、打率2割7分6厘、27本塁打78打点の成績で、最後まで中心選手として活躍し続けました。
この数字だけを見ると、「まだまだやれた」という印象をぬぐえません。ユニフォームを脱ぐには早すぎるように見えましたが、それにもかかわらず現役引退を表明したのは、力の衰えを痛切に感じていたためだと推察されます。特に大きかったのが、大学時代から悩まされていた持病の腰痛の悪化でしょう。
現役晩年は、腰痛が災いし、プレーに支障が出ることも多くなっていました。また、走力や肩の衰えも隠せず、売り物にしていた強肩も、日本シリーズ出場時の負傷をきっかけに影を潜めていたのも事実です。日本シリーズでは、西武との8戦の激闘に敗れ、日本一はかないませんでしたが、本拠地で広島ナインから胴上げされて涙の花道を飾りました。
その後は、3年間の評論家活動を経て、満を持して広島監督に就任。監督時代は、1989~1993年までと、2001~2005年までの計10シーズンで指揮を執っています。通算成績は、648勝681敗(29分)勝率4割8分8厘、Aクラス3回、Bクラスは7回、リーグ優勝は1991年の1回のみと、決して秀でたものではありません。しかし、前田智徳や緒方孝市、江藤智、金本知憲、新井貴浩らを育成するなど、打線強化の手腕はさすがでした。
山本浩二が離婚した?嫁との離れ離れの生活が生んだ根も葉もない噂か?
往年の大打者・山本浩二に、なぜか離婚の噂が立っています。嫁は、山本浩二の法政大学時代の同期生のいとこだったようで、1歳年下。銀行で働くOLだったそうです。山本浩二に憧れていて、結婚前は、彼がプレーする球場に足しげく通っていたと言います。
しかし当の本人は至ってのん気なもので、「あの女性、誰の彼女じゃろか?」と思っていたとか。プロ入り2年目の1970年にめでたくゴールインした山本浩二のプロポーズの言葉は、「ワシの両親に会ってくれ」というものでした。当時の山本浩二は、後の4番打者を予感させるにはほど遠い成績でしたが、そうした中で結婚したということは、嫁に見る目があったとも言えるでしょう。
嫁に投げてもらったスポンジを目標に、山本浩二がバットを振りこむなど、二人三脚で大打者への道を一歩ずつ歩んでいきました。そんな2人が離婚するとは考えにくいものですが、どうやら完全なデマの様子です。広島と東京に自宅を持っている山本浩二は、東西往復して嫁と離れ離れの生活のため、離婚説が独り歩きしたものと思われます。
山本浩二が星野仙一お別れの会で弔辞……大学時代からの親友に捧げた言葉は「友でよかった」
中日や阪神、楽天の監督を歴任し、2018年1月に逝去した星野仙一の「お別れの会」が行われ、大学時代から親友だった山本浩二も、席上で弔辞を述べました。2人は、東京六大学リーグにおいて、山本浩二が法政大の主力打者で、星野仙一が明治大のエースとして対戦してきた間柄。
しかし、プライベートでは同学年の親友関係で、「コージ」「セン」と呼び合う親交ぶりが有名でした。もともと山本浩二と親しかったのは同じ法政大学出身の田淵幸一でしたが、いつしか星野仙一もその仲良しグループに参入。プロ入り後も、「ミスター赤ヘル」と「燃える男」として対戦しつつ、互いの家に泊まりあっていました。相手チームの選手宅に宿泊するのは好ましいことではありませんが、ファンは、彼らに限っては黙認していたと伝えられています。
また、山本浩二が現役引退を決意した時、最初に打ち明けたのも親友である田淵幸一と星野仙一だったというエピソードからも、彼らの親交の深さがうかがえます。監督としても、カープとドラゴンズで火花を散らし合った間柄だった山本浩二と星野仙一。2008年の北京オリンピックで、星野仙一日本代表監督に、田淵幸一ヘッドコーチ、山本浩二守備走塁コーチという顔ぶれが「仲良しコンビ」と揶揄されたこともありました。
弔辞では、その北京オリンピックが「一番の思い出だった」と語った山本浩二は、「友でよかった。ありがとう。安らかに」と締めくくっています。往年の「ミスター赤ヘル」は、良き友にして良きライバルだった「燃える男」への思いは尽きません。