アレキサンダー大王は古代ギリシャで活躍した英雄!十数年で大帝国を築き上げた!
紀元前356年〜323年に活躍した古代ギリシャの英雄・アレキサンダー大王は、ギリシャの強国であったマケドニアの王、フィリッポス2世の子供としてその生を受けました。
フィリッポス2世はペルシャ遠征を目論むなど野心家でしたが、暗殺によりその夢は道半ばで閉ざされてしまいます。アレキサンダー大王は亡き父に代わり、20歳で王位を継承しました。
父の意志を継いだアレキサンダー大王は、ペルシャに侵攻を開始。天才的な軍略により、次々と都市を陥落させていいきます。そして見事ペルシャ全土を手中に収め、さらにエジプトやインドまでも支配下におき、史上最大規模のマケドニア王国を築き上げます。アレキサンダー大王がこの大侵略に要した期間は、わずか十数年。いかに優れた軍略家であったかが分かりますね。
また、ギリシャとインド、エジプトをまたいだ大帝国をアレキサンダー大王が築き上げたことにより諸国の文化が混ざり合い、「ヘレニズム」という文化が生まれました。この文化によって生まれた彫刻「ミロのヴィーナス」「ラオコーン」「サモトラケのニケ」などは、現代に残る有名な作品です。
加えて、エウクレイデス、アルキメデスといった学者も輩出し、アレキサンダー大王は文化面でも多大な影響を後世に与えたのです。
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マケドニア軍の強さを生んだ戦術とは?
アレキサンダー大王は、秀でた才覚によりマケドニア軍を世界最強の軍隊と言われるほどの武力を誇るまでに育て上げ、偉大な功績を成し遂げました。
アレキサンダー大王が活躍した時代に主な戦術として用いられていたのは、大きな盾と槍を持って進軍する「ファランクス」と呼ばれる密集隊形でした。アレキサンダー大王は盾の使用をやめ、代わりに従来よりも更に長い槍を兵士に持たせることで、攻撃力と機動力を増強しました。
戦況に合わせて戦術を組み替え、重傷を負っても常に軍の先頭に立って果敢に戦う王の姿は、兵士の士気を高めました。また、飢えと渇きに多くの兵士が倒れる砂漠で、部下が王にと見つけてきた1杯の水を口にせず、部下と苦しみを分かち合ったというエピソードもあります。統率力に優れたアレキサンダー大王は、兵士達から絶大な信頼を集めました。
アレキサンダー大王はアリストテレスの弟子だった?
20歳で王位を継承したアレキサンダー大王は13歳から16歳まで、アリストテレスに教えを受けていました。
アリストテレスは古代ギリシャで最も有名な哲学者の一人で、政治学、気象学、自然学、心理学、倫理学など様々な分野を研究し、後世に多大な影響を与えた人物として知られています。そんなアリストテレスを、父・フィリッポス2世がアレキサンダー大王の家庭教師として招き、教えを受けることとなったようです。
アレキサンダー大王は「父からは生を受け、アリストテレスからは良き生を受けた」と語るほど、アリストテレスを心から尊敬していたといいます。
謎に包まれたアレキサンダー大王の死の真相とは?
紀元前323年、東方遠征を終えたアレキサンダー大王は祝宴の最中に突如倒れ、10日間高熱にうなされた末にこの世を去ったとされています。32歳というあまりに早すぎる死でした。
アレキサンダー大王がなぜ若くして命を落としたのか、今でもその死の真相は謎に包まれたままです。これに関して、いくつかの説が語られています。
1つは、アレキサンダー大王は倒れる前に蚊に刺され、これが原因でマラリアを発症し、死亡したとされる説です。刺されたのは蚊ではなく、蜂だという説もあります。また、何日も高熱にうなされたという史実から、西ナイル熱によって病死したとも言われています。
2つめは、暗殺説です。東方遠征中、酒に毒を盛られて暗殺されかけた、側近に毒を盛られた、インドから送られてきた絶世の美女に毒を盛られたなど、暗殺説については諸説あり、病死説と並ぶ有力な説とされています。
しかし、真相を明らかにする決定的な史料は発見されておらず、アレキサンダー大王の死の真相が解明されるまでには、まだ時間がかかりそうです。
敵国への夜襲を部下に進言されても「私は勝利を盗まない」と翌朝まで攻め込まず、戦いで捕えた敵国の王の母と王妃に敬意をもって接するなど、人間的な度量がうかがえる逸話が残るアレキサンダー大王は、真の英雄と呼べる偉大な王だったといえるでしょう。
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