陸上選手として、2019年のNHK大河ドラマ「いだてん」の主人公・金栗四三とともに日本人初のオリンピック選手になった三島弥彦(みしまやひこ)。東京オリンピックの開催が迫る中、日本陸上界の礎となった人物として注目されています。
しかし、三島弥彦は元からオリンピックを目指していたわけではありませんでした。彼はまるでドラマのような展開で、日本人初のオリンピック代表として海を渡ることになったのです。
◆死没:1954年2月1日
◆出身:東京都
◆身長:175cm
◆出身校:東京帝国大学法科大学(現:東大法学部)
◆ストックホルムオリンピック日本代表
「いだてん」で注目!三島弥彦を演じたのは生田斗真
三島弥彦の身長は、175cmだったそう。今ではさほど高いとは思いませんが、明治時代の日本人男性の平均身長は155cm前後で、現代の女性の身長と変わらないほどでした。そこから考えると、当時の平均身長を20cmも上回っていた三島弥彦は、現在の190cm近い高身長に匹敵するイメージだったでしょう。
若い頃からスポーツ万能で、複数の運動部に所属していた三島弥彦。野球部ではキャプテンを務め、ボート部でもレギュラー入り。その様子は、生田斗真が三島弥彦役を演じたNHK大河ドラマ「いだてん」の中でも描かれています。
「いだてん」では実際の新聞記事が引用され、当時の三島弥彦の様子にフィーチャーするシーンも多数。三島弥彦が活躍した明治時代、彼の名は新聞やスポーツ雑誌で頻繁に取り上げられていました。
当時スポーツ雑誌の代表格であった「運動世界」でも、三島弥彦の特集がよく組まれていました。陸上競技のみならず、あらゆるスポーツにおいて才能を発揮し、見る者の目を惹きつけて止まなかった三島弥彦。そのスター性が「いだてん」でも魅力的に描かれています。
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三島弥彦が超人すぎる!飛び入り参加で代表に
日本が開催5回目にして初めて参加したオリンピックにおいて、記念すべき初の代表選手となった三島弥彦。しかし、彼はオリンピック代表になるため、日夜トラックで練習に励んでいたわけではありません。
三島弥彦は代表選手を決める予選競技会に呼ばれていますが、それは審判としてでした。審判の要請は断ったものの、スポーツ好きな彼は予選を見学するため会場を訪れます。そして、観ているうちに自分も走りたくなったという理由で飛び入り参加。何も練習していなかったにも関わらず、100m・400m・800mで1位を獲得するという信じがたい展開で、三島弥彦はオリンピック代表となりました。
1912年5月に開催されたストックホルムオリンピックに代表として派遣されたのは、陸上短距離の三島弥彦と、マラソン・1万メートルの2種目で代表となった金栗四三の2名のみ。予選競技会では他の種目も行われましたが、日本オリンピック委員会が派遣費用を用意できず、選手負担となったのがその理由でした。家庭が裕福だった三島弥彦は労せず渡航費用を準備していますが、金栗四三は仲間の寄付等に助けられ、渡航できたといいます。
ストックホルムオリンピックの予選会や記録証、ストックホルムへ向かう船上や開会式をはじめとする大会の様子を納めた写真など、当時の様子がわかる貴重な史料は、開催を前に三島弥彦が家族に書いた手紙や本人の日記とともに、彼の孫・通利(みちとし)氏の自宅で見つかっています。
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三島弥彦の理解者・シマは架空の人物?
大河ドラマ「いだてん」には、三島弥彦の実家である三島家で女中として働くシマという女性が登場します。同作は史実に沿って忠実に脚本が書かれていますが、中村勘九郎扮する前半の主人公・金栗四三の物語から、阿部サダヲ扮する後半の主人公・田畑政治の物語へスムーズにバトンタッチするための潤滑油として、シマはごくわずかに登場する架空の人物です。
三島弥彦の良き理解者として彼を支えたシマは、前半第二部では金栗四三と関わり、後半へ向けてよりストーリーを面白くするキーパーソンとなりました。関東大震災で行方不明になった彼女が再び登場することはないものとみられていた中、9月15日の放送で娘・りくの登場に喜んだ視聴者も多かったのではないでしょうか。
りくを演じているのは、彼女の母・シマとの二役となる杉咲花。2020年の秋から放送されるNHK朝の連続テレビ小説「おちょやん」のヒロインに決定した彼女が、持ち前の演技力でこの先のストーリーに再び華を添えてくれるのは嬉しいですね。
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三島弥彦は文武両道の超エリート!
日本人初のオリンピック陸上競技選手として名を馳せた三島弥彦ですが、高校までは学習院、大学は現在の東大法学部にあたる東京帝国大学法科大学に進学しており、学業面も優秀な文武両道型でした。父親が警視総監、一番上の兄は後の日銀総裁というエリート家系であったことを考えれば、三島弥彦の優秀ぶりはうなずけます。
身体能力に優れ、陸上だけでなく、スケートやスキー、相撲、乗馬など、ジャンルを問わずあらゆるスポーツで人並み以上の力を発揮していた三島弥彦。学習院時代にキャプテンを務めた野球部ではエースとしてもチームを引っ張り、柔道も二段の腕前だったといいます。
しかし、栄えある初の日本代表となったストックホルムオリンピックでは、100m、200mで予選敗退、400mも右足の痛みで棄権と、思わぬ結果に終わっています。負けず嫌いの三島弥彦は1916年の開催が決まっていたベルリンオリンピックでの雪辱を誓い、ベルリンで会場を視察して帰国するという気合いの入れようでした。
ところが、第一次大戦の勃発によりベルリンオリンピックは幻に終わり、1920年にベルギーのアントワープで開催されたオリンピックへの出場は、26歳で出場したストックホルムオリンピックから8年が過ぎ、30代半ばに差し掛かっていた三島弥彦にとっては厳しかったのか、予選会にも出場することはありませんでした。
日本初のオリンピック代表でありながら、そのことを自ら進んで話すことはなかったという三島弥彦。世界を相手にした舞台で敗退し、そのリベンジも果たせなかった悔しさは、言葉に尽くせぬほどの思いとして彼の胸に残ったのかもしれません。
現代の日本陸上界への貢献度という視点では、金栗四三がクローズアップされがちです。しかし、彼とともに日本初参加のオリンピックを体感し、その後も現在の日本スポーツ協会の幹部委員を歴任。1940年のオリンピック開催地が東京に決定した時も協会の評議員として尽力した三島弥彦も、日本のオリンピックを陰で支えた立役者として忘れてはならない人物の一人です。
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