石毛宏典の監督キャリアはいずれも解任!その理由は? 現役時代の成績、年俸は?
石毛宏典の監督キャリアはいずれも解任!その理由は?
常勝西武ライオンズのキーマンとして、チームを力強く牽引した元プロ野球選手の「ミスターレオ」こと石毛宏典(いしげひろみち)。石毛宏典ほどのキャリアがあれば、各球団で監督として腕を振るっていてもおかしくありません。実際、西武でチームリーダーとして活躍し、監督候補として有力視されていたほどでした。
しかし、1994年シーズンオフに西武新監督の有力候補に挙がった際に、それを蹴って福岡ダイエーに移籍したことで、西武監督就任の機会は失われた形になっています。その後、ダイエーで2軍監督のポストに就きましたが、結果を見ると、たった1年で解任という、成功とはほど遠い末路をたどりました。解任理由としては、「スタメンをあみだくじやジャンケンで決めていた」ことが挙げられています。
たしかに一見すると不真面目なやり方ですが、選手たちにさまざまな打順を経験させることで失敗しないようにという狙いがあったそうです。さらに、解任となった真の原因は、球団強化策について進言した内容にあったとも言われています。その内容が批判と受け取られ、球団フロントの怒りを買ってしまったとか。
真実は不明ですが、球団側には石毛宏典の存在を快く思っていない人物もいたのでしょう。その後は、野球解説者を経て、2002年にオリックス・ブルーウェーブの監督に就任しますが、ここでもフロントとギクシャクした関係に陥り、2003年で監督を退任します。
監督初年度は最下位で、2年目も開幕から低空飛行が続くなど、監督としての手腕が疑問視される中での退任劇でした。とはいえ、球団の戦力補強姿勢が十分ではないと同情する声があったのも事実で、石毛宏典自身の監督としての適性以前に、球団の体質とかみ合わなかったことが響いた結果だったと見る向きも。結果論になりますが、最初に西武で監督に就任していれば、順調にキャリアを積み重ねていたかも知れません。
石毛宏典の成績は通算200本塁打と200盗塁、200犠打を記録!年棒は?
石毛宏典の現役時代の成績ですが、生涯成績は実働16年で1796試合に出場、6472打数1833安打236本塁打847打点、通算打率2割8分3厘を残しています。主な打撃タイトルには無縁でしたが、新人王とMVPでそれぞれ1回表彰された他、ベストナイン8回、ゴールデングラブ賞10回。ゴールデングラブ賞の常連だったことでも分かるように、堅実な守備力は折り紙付きでした。
通算200本塁打をクリアしながら200盗塁、200犠打も突破するなど、石毛宏典は走攻守のバランスが取れた選手だったと言えます。打撃では、デビュー当初から、当時ロッテオリオンズにいた落合博満と首位打者争いを演じ、ホームラン21本を記録するなど、1番打者として活躍しました。シーズン打率は3割以上を4回記録し、14年連続100安打以上をクリアしています。
1988年には、パ・リーグの野手では初めて推定年俸1億円に到達し、最高で2億円の年俸だった時期も。しかし、福岡ダイエーホークスへ移籍した後の1995年は、衰えが目立ち、年俸は50%の大幅ダウンに終わり、1996年限りで現役引退を表明しました。もう少し息長くプレーを続ければ、2000本安打も夢ではなかっただけに残念です。
石毛宏典が清原和博に送ったエールが熱い!常勝西武のチームリーダーのスキャンダルとは?
石毛宏典が清原和博に送ったエールが熱い!「社会復帰したらセカンドチャンスを与えてほしい」と提言も!
石毛宏典は、西武黄金期を共に戦ったチームメイト清原和博に熱いエールを送っています。球界の4番打者として常にスポットライトを浴び続け、独特の存在感を見せていた清原和博のまさかの転落。覚せい剤を所持し、常用していた行為は、身も心もむしばむ恐ろしい結果を招きました。
禁断の実に手を出したかつての天才打者には、当然ながら「ファンだったのに見損なった」などと手厳しい意見が寄せられた反面、全盛時代の彼の雄姿が忘れられず、再起を願う激励の声があるのもまた事実。その中に、かつて苦楽を共にした石毛宏典の声もありました。
「更生した人間へセカンドチャンスを与えるのがアメリカ文化」という事例を踏まえ、「キヨ(清原)が罪を償って更生し、社会復帰したとき、本人が野球に携わりたいなら、そういう場を与えてほしい」と提言。「プロかアマチュアかはともかく、どこかのチームで俺が監督やってたら、気兼ねなく『おい、キヨ、手伝えよ』って遠慮なく声を掛けたい」とも語っています。
覚せい剤を現役時代からやっていたという疑惑については、「俺はやってないと信じたい。一緒にやっていた西武時代は絶対やってないと思う」と一蹴。それだけ、後輩を信じたい気持ちが強いことが伝わってきます。そんな石毛宏典からの熱いエールを、清原和博はどう受け取ったのでしょうか?
石毛宏典は常勝西武のチームリーダー!離婚歴3回などスキャンダルも抱えていた!
石毛宏典は、プレーでは走攻守に優れた才能を発揮し、チームリーダーとしても大きな存在感を見せました。彼がいなければ、西武の黄金時代到来はあり得なかったと言っても過言ではありません。それほどの名プレーヤーでありながら、スキャンダルにもつきまとわれ、プライベートでは、3回結婚して3回とも離婚を繰り返しています。
石毛宏典は、1956年9月22日生まれで千葉県旭市出身。銚子市立銚子高校で1番を打ち、3年時に、県予選決勝まで進出しながら、甲子園出場には手が届きませんでした。同年のドラフト会議で、ロッテオリオンズの6位指名を受けたものの、入団を拒否して駒澤大学に進学。東都大学リーグでは3年生までに5回優勝し、リーグ戦では歴代3位の114本安打を記録しました。
1976年からは2年連続で日米大学日本代表入りを果たし、社会人野球のプリンスホテル加入後は、都市対抗初出場の原動力になるなど活躍。同年のドラフト会議で1位指名権を獲得した西武に入団しました。1年目から開幕スタメンを勝ち取った石毛宏典は、広岡達朗や森祇晶という名将のもとでチームリーダーとして常勝チームを牽引します。1994年オフには、森祇晶監督の後任を打診されながら現役にこだわり、FA権行使で福岡ダイエーホークス(現ソフトバンク)へ移籍しますが、年齢的な衰えは隠せず、成績は低迷。1996年シーズン限りで現役を引退しました。
その後、ダイエー2軍監督を1年務め、野球解説者を経て2001年オフにオリックス監督に就任しましたが、2003年シーズン序盤に解任され、四国アイランドリーグ運営に参画するなど波瀾万丈の野球人生を送っています。四国アイランドリーグ立ち上げに尽力するなど、我が国に独立リーグのすそ野を広げた功績は忘れてはなりません。
石毛宏典が掛布雅之とトークショー!1985年日本シリーズの裏話や後輩への歯に衣着せない発言も
2018年6月1日に開催された西武-阪神交流戦では、両チームの大物OB石毛宏典と掛布雅之が来場し、試合後に行われたトークショーでファンを沸かせました。主力打者としてチームを引っ張り、ファンから絶大な人気を博した2人には、ほぼ同世代で千葉県出身という共通項があります。
登場するやいなや「千葉県が自慢できる大先輩」(石毛)、「悪いアウトが非常に少ない、ミスのない選手」(掛布)とお互いを紹介。2人が対戦した1985年の日本シリーズでは、「とにかく、石毛を(調子に)乗せるなと阪神が一番マークした」と掛布雅之が裏話を披露しました。
実際の日本シリーズでは、3本のホームランを放ち、敗れた西武の中において唯一気を吐いた石毛宏典。その活躍が評価され、敢闘賞表彰を受けています。この時の日本シリーズでは、阪神の圧倒的な破壊力が注目されましたが、西武も打線につながりがあれば石毛宏典の打棒が生かされたはずです。しかし、シリーズ3戦で、石毛宏典は、外野手と交錯して右ひざの靭帯を損傷してしまいました。
「足の靱帯がプラプラになっていた」と振り返った通り、以降のシリーズ出場は絶望的でしたが、広岡達朗監督から詰め寄られ、「出ます」と強行出場した話を披露し、場内を盛り上げています。その代償として、守備位置をショートからサードに転向。現役生活を通じて、右ひざが万全ではない中、チームリーダーとして士気を鼓舞し続けました。
司会者に「今、イイと思う選手は?」と話を振られた石毛宏典からは、「浅村(栄斗)。辻(発彦)監督の意を汲んでプレーで実践している」と返答。続けて、「源田(壮亮)?アイツはまだまだハナクソ」と歯に衣着せない発言も飛び出しました。
最後は「選手のプレーを生で見て、よかったら拍手、悪ければ叱咤激励を」とのファンへの熱いメッセージで締めくくった石毛宏典。ユーモアも交えつつ、厳しいながらも野球への愛情がほとばしるトークが満載でした。まだまだ衰え知らずの情熱で、今後も野球界を見守り続けて欲しいですね。