中野浩一の嫁は歌手NAOMI!競輪界のレジェンド、海外知名度は?

中野浩一の嫁は歌手NAOMI!競輪界のレジェンドと呼ばれた強さとは?

中野浩一の嫁は歌手NAOMI!若い頃には離婚の危機もあった?

競輪と自転車競技の元選手で、現役時代に数々の記録を打ち立ててきた中野浩一は、1987年に結婚しています。お相手は、当時アイドル歌手として活動していたNAOMIです。


1983年に、「誰にも言わないで」にて、本名の小久保尚美名義でアイドル歌手デビューし、現在はタレントや実業家として活動しています。2人が結婚した1987年と言えば、中野浩一の絶頂期。競輪&自転車競技選手として、日本にとどまらず、世界を股にかけて大活躍していました。

 

そのため、「勝つ事だけを最優先し 勝つ事が一番大切」だと亭主関白を貫いて家庭のことは顧みず、ストレスが高じたNAOMIが適応障害を患ったこともあったとか。結婚後5年が過ぎた頃には、半年間別居したこともあり、離婚の2文字が妻の頭をよぎったこともあったと言います。

 

しかし、競技から引退した中野浩一が妻NAOMIに理解を示すようになったことから状況が好転し、別れることなく夫婦生活を続けてきました。頻繁に更新される妻NAOMIのSNSには、中野浩一と一緒に写っている画像もたくさんアップされています。勝利だけを目指し、常にプレッシャーにさらされ続けた厳しい競技時代を共に乗り越えてきたからこそ、仲睦まじく穏やかな今があるのでしょう。

中野浩一は競輪界のレジェンド!その強さとは?

現役時代の中野浩一は、1975年に競輪デビューするや、いきなり18連勝を遂げ、1236回出走したうち1着が666回、特別競輪での優勝回数が169回など、他の追随を許さない活躍ぶりでした。歴代最多の6回も年間賞金王に輝くなど、瞬く間に競輪界のトップに立ち、日本人プロアスリートでは初となる獲得賞金1億円プレイヤーにもなっています。このように、自転車乗りであれば誰もが憧れる競輪界のレジェンドとなった中野浩一。

 

その強さの秘密は、高校時代に取り組んでいた陸上によって培われた脚力にあったのかもしれません。高校2年の時には、インターハイの400メートルリレーに出場し、八女工業高校の優勝に貢献した実力の持ち主でしたが、怪我が原因で陸上による大学進学を断念。

 

その後は、体育教師やプロゴルファーになることを夢見たそうですが、競輪選手だった父・中野光仁よりトラックレーサーになることを勧められました。わずか3カ月程度の練習に取り組んだ中野浩一は、日本競輪学校に見事合格し、才能あふれる選手として成長していきます。

 

その後も驚異的な走りで国内トップに君臨し続け、1992年に現役を引退した中野浩一の獲得賞金総額、約13億2千万円。現在は、競輪の解説者や競輪とオートレースの振興法人JKAの特別顧問、日刊スポーツの競輪担当評論家など、競輪に関する場面で活動している他、タレントやスポーツコメンテーターとしても活躍しています。

中野浩一の海外知名度は?伝説エピソード、引退理由は?

中野浩一の海外知名度は?「世界のナカノ」と言われる理由

輝かしい実績から「ミスター競輪」と呼ばれた中野浩一の海外での知名度はどのようなものなのでしょうか。自転車レースというと、日本スポーツ界ではまだニッチな部類と言えますが、ヨーロッパでは、国策として選手育成に力が入れられるほどメジャーなスポーツです。

世界自転車選手権も人気で、中野浩一は、1976年に、プロ2年目の若手選手仲間でもある菅田順和と共に、プロ・スプリント種目に初参戦しています。

最初の2年こそ振るいませんでしたが、1977年に決勝で菅田順和を抑えた中野浩一は初優勝。以後1986年まで負け知らずで、前人未到の10連覇を達成しました。これにより、「世界のナカノ」として、ヨーロッパで一番有名な日本人とまで言われるようになった中野浩一。同じように「世界の」と冠される日本人アスリートが、野球の王貞治やサッカーの中田英寿、スキージャンプの葛西紀明であることを考えても、その凄さが分かるというものでしょう。

中野浩一の伝説エピソードや引退理由は?

「世界のナカノ」と呼ばれただけあって、伝説級のエピソードにも事欠かない中野浩一。1986年にコロラドスプリングスで行われた世界自転車選手権を前にした国内での練習中に、転倒して肋骨を骨折する大怪我に見舞われながらも10連覇を成し遂げたというだけでも驚きです。

世界自転車選手権での活躍ぶりから、ヨーロッパでその名を知られるようになった中野浩一がエールフランスに搭乗した際には、機長からサインを求められた上、コックピットに招待されたと言います。同様の事はレストランでもあったようで、フランスの有名レストランで名前を名乗れば、予約最優先になるとか。

中野浩一曰く、ヨーロッパで自身の名前を伝えると、緊張のあまり相手が固まってしまうこともしばしばだったとか。このように日本よりも海外の評価のほうがケタ違いに高い中野浩一にも引退する時はやって来ました。1992年、37歳で競技生活にピリオドを打った中野浩一。引退理由はハッキリと明かされませんでしたが、年齢による体力の限界説が濃厚だと見られています。

中野浩一も西城秀樹も歴史的レジェンド!オリンピック正式種目に決定で自転車競技も大注目

2018年5月25日に急性心不全でこの世を去った西城秀樹の通夜には、中野浩一とその妻のNAOMIも参列しました。1955年11月生まれの中野浩一は、4月生まれの西城秀樹と同い年。活躍した業界こそ違うものの、競輪&自転車界と音楽界、それぞれでレジェンドと称された2人。

中野浩一の妻NAOMIのインスタグラムに「若い頃からパパと仲良く」とあったことからは、かねてより親交があったことが分かります。おそらく、中野浩一も、トップアイドルとして人気を博し、歳を重ねてからもステージに立ち続けた西城秀樹から、多くのパワーをもらったのではないでしょうか。

中野浩一が大記録を達成した自転車競技は、2020年東京オリンピック・パラリンピックに正式種目として加わることが決定しました。さらに、高校生のロードバイク競技を描いた少年スポーツ漫画「弱虫ペダル」の爆発的人気も手伝ってか、日本は、異例のロードバイクブームで、若者から年配者まで競技用自転車を楽しむ人が増えていると言います。

すでに競技からは引退している中野浩一も、このような光景を喜ばしく見ていることでしょう。一般的には手軽な移動手段でしかなかった自転車や、ギャンブル性が高いと敬遠される部分もあった競輪が、メジャースポーツとして日本で花を咲かせようとしているのも、中野浩一の輝かしい活躍があったからこそ。

彼が切り拓いてきた道の続きに今があると言っても過言ではありません。「世界のナカノ」に憧れた選手たちが次々に活躍する時代となりましたが、世界で一番有名な自転車乗りの伝説は、今後も世代を超えて語り継がれていきます。

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