2019年7月23日 更新
ポール・セザンヌの作品は落選続きだった!?
フランスの画家ポール・セザンヌは、1839年1月19日にフランス王国のプロヴァンスで3人兄妹の長男として生まれました。父親は銀行経営者、母親は父親の下で働いていた元使用人でした。
ポール・セザンヌは、中等学校時代に市立素描学校に通い始めます。その後、父親の勧めでエクス大学の法学部に通い始めますが、画家になる夢をこの頃から持ち始めていたポール・セザンヌは、デッサンも続けていました。このころに、生涯の親友となる、エミーユ・ゾラと出会います。
次第に画家への憧れが強くなっていったポール・セザンヌは、ゾラの進めもあり大学を中退、1861年からパリに住みます。しかし公立の美術学校への入学を許可されなかった彼は、私立の画塾「アカデミー・シュイス」へ入塾しますが、他の画学生となじめず孤立してしまい、半年足らずで故郷へ戻ってしまいます。
故郷でも美術学校で絵の勉強を続けながら父の銀行で働いたポール・セザンヌでしたが、銀行の仕事にもなじめず、1年ほどでパリへ戻ります。再び「アカデミー・シュイス」で絵を学び始めたポール・セザンヌは、ここでルノワール、モネなど印象派を代表する画家と出会ったとされています。
1865年から1870年まで、パリの公式美術展覧会「サロン・ド・パリ」へ応募を続けたポール・セザンヌ。しかし独創的な作品で入選を目指す彼は落選が続きました。1868年のサロンでは、普段から親交のあった画家たちが入選したにも関わらず、ポール・セザンヌだけは落選しています、
1870年から始まった普仏戦争の兵役を逃れるため一旦パリを離れたポール・セザンヌは、1872年頃から再びパリで創作活動を始めます。しかし世間からの評価は上がらず、エドゥアール・マネの「オランピア」に敬意を表して描いた「モデルヌ・オランピア」は、酷評を浴びました。
そんな彼の良き理解者となったのが、エドゥアール・マネの作品を擁護し、助けていた小説家のエミール・ゾラでした。ポール・セザンヌにとって中学の後輩であり、長年の友人でもあった彼は、なかなか世間の評価を得られなかったポール・セザンヌの作品を擁護し、「モデルヌ・オランピア」が酷評された時にも評価する新聞記事を書いています。
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ポール・セザンヌは遅咲きの画家だった?
ポール・セザンヌが初めてサロンに入選したのは、1882年でした。しかしこれは審査員は弟子を一人だけ入選させられるという特権を利用し、友人の審査員の弟子として応募したことによるものでした。
ポール・セザンヌの作品はなかなか理解を得られませんでしたが、ポール・ゴーギャンやエミール・ベルナール、ポール・セリュジエなど前衛的な作品でポスト印象派と呼ばれる若い画家や、一部の批評家の中では徐々に評価が高まっていました。
1895年、ポール・セザンヌは「アカデミー・シュイス」で共に学んだカミーユ・ピサロの勧めにより、50代半ばにして初の個展を開催します。150点ほどが展示された個展の作品を見たカミーユ・ピサロは、「驚くべき微妙さ、真実、古典主義を持った第一級の画家だ」とポール・セザンヌを絶賛する手紙を息子に送っています。
1900年に「万国博覧会」の企画としてパリで開催された「フランス美術100年展」に出品したポール・セザンヌは、これを機に様々な展覧会へ積極的に出品するようになります。彼の作品は相変わらず一般ウケはしませんでしたが、若い前衛画家からの支持は厚く、ポール・セザンヌの絵を画家たちや批評家が取り囲んでいる「セザンヌ礼賛」という作品に、彼に対する敬愛ぶりがうかがえます。
60歳を過ぎても若い画家たちに慕われながら持てる力を振り絞って制作活動を続けたポール・セザンヌ。特に水浴図の制作に意欲的で、縦208cm、横249cmもの大作「女性大水浴図」をはじめ、複数の水浴図を描いています。
「絵を描きながら死にたいと願っている」と友人の画家に話していたポール・セザンヌは1906年10月、屋外で作品を制作していたところ大雨に遭って体調を崩し、肺充血を併発して同月23日に67歳で生涯を閉じました。
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ポール・セザンヌの有名な作品は?
ポール・セザンヌの作品はフィンセント・ファン・ゴッホやポール・ゴーガンなどポスト印象派の画家をはじめ、フォービスムのアンリ・マティス、キュビスムのパブロ・ピカソなど、多くの画家に影響を与えました。
そんなポール・セザンヌの代表的な作品を紹介します。
レヴェヌマン紙を読むルイ=オーギュスト ・セザンヌ(画家の父)
ポール・セザンヌが27歳で描き上げた1866年の作品で、モデルは父親のルイ=オーギュスト・セザンヌです。
ポール・セザンヌが画家になることを反対していた父親に、彼が嫌っていたという「レヴェヌマン紙」を持たせており、父親に認められたいポール・セザンヌを表しているのではないかと見る説と、反対にポール・セザンヌを認めない父親に対する皮肉ではないかと見る説とがあります。
モデルヌ・オランピア
大バッシングを浴びたエドゥアール・マネの作品「オランピア」への敬意を示して描いた1873年の作品で、エドゥアール・マネと同様、大きな批判を浴びました。
リンゴとオレンジ
ポール・セザンヌが遺した静物画の中で、最も完成度の高い作品と言われています。
ポール・セザンヌにとってりんごは「りんごでパリを驚かせたい」と度々口にするほど重要なモチーフでした。彼の描いた静物画は200点ほどありますが、そのうち「リンゴのバスケット」 「りんごの籠のある静物」「りんごとナプキン」「りんごと洋梨」など60点以上もの作品でりんごを描いており、強いこだわりがうかがえます。
美術批評家のタデ・ナタンソンは、ポール・セザンヌの描くりんごを「食べたくなる美味しそうなりんごではなく、心奪われるような彩りと形を持つ美しいりんご」と評し、ポール・セザンヌを「りんごの画家」と称しています。
「絵画には、二つのものが必要だ。つまり眼と頭脳である。この両者は、お互いに助け合わなければならない」といい、写実主義とは相反する“見た物を感覚で作品にしていく”というスタイルを確立したポール・セザンヌ。彼の画風は、強いタッチで大胆に原色を使うフォービスムの画家や、装飾的な芸術を提唱するナビ派の画家に影響を与えました。
さらに、細部まで緻密に描かず、「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という表現法は、キュビスムを確立したジョルジュ・ブラックやパブロ・ピカソに影響を与えており、20世紀の美術に革新をもたらしたともいえるポール・セザンヌは、「近代絵画の父」と言われています。
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