牧村三枝子は病気で余命宣告された過去があった!壮絶人生を救った家族と歌手仲間とは?

2020年10月31日 更新

牧村三枝子は病気で余命宣告されていた!5人兄弟の末っ子に生まれた壮絶人生とは?


牧村三枝子のプロフィール
◆生年月日:1953年12月21日
◆出身:北海道
◆愛称:ミーコ
◆メジャーデビュー:1972年7月25日
◆所属事務所:サンミュージックプロダクション
◆レーベル:バップ

牧村三枝子の病気は肝硬変と食道静脈瘤!余命5年を宣告されるまでの転落人生!

牧村三枝子(まきむらみえこ)は、1980年代前後に大ヒット曲を多数持ち、1981年から1984年まで4年連続NHKの紅白歌合戦にも出場した演歌歌手。2013年6月にTBS系で放送された「爆報!THEフライデー」に出演し、辛かった過去について告白していました。

なんと牧村三枝子は、一時は医師から「余命5年」を宣告されたほど、重い病気に侵されていたとのこと。2002年頃に発症したという牧村三枝子の病名は、肝硬変と食道静脈瘤。原因は、おびただしい飲酒量だったと語っています。

1990年初頭まで順調だった歌手活動に陰りが見え始め、正念場を迎えていた牧村三枝子。1997年2月、そんな彼女を襲ったのは、最愛の父親の死でした。喪失感のあまり、「何のために頑張ればいいのか分からなくなった」という牧村三枝子は、1日中酒を浴びるように飲み続け、アルコール依存が進み、初めて病院へ行った時には体重が35kgまで激減していたと、当時のことを振り返っています。

牧村三枝子は5人兄弟の末っ子!父親の失職と超極貧生活の中で育った家族への想い

牧村三枝子は1953年12月21日、北海道美唄市で、5人兄弟の末っ子として生まれました。炭鉱労働者だった父親は、39歳で生まれた末娘の牧村三枝子を溺愛。しかし、長年の炭鉱労働で衰弱していった父親は、40代後半になると、やがて働くことができなくなりました。

食堂の皿洗いをする母親の収入が、一家の唯一の支え。家族7人が、6畳1間で窮屈に暮らす極貧生活の中、牧村三枝子は「皆が温かく寝ることができる家が欲しい」と、夢を抱くようになります。

こうして歌手になる決意をした牧村三枝子は、中学卒業後の15歳で上京。釣具店で働く傍ら、サンミュージックタレントスクールを経て、19歳だった1972年7月25日にRCAレコードより「少女は大人になりました」を発売し、デビューを果たします。

そして1985年32歳の時、遂に悲願のマイホームを購入。富士山のふもとの豪邸で、両親、兄弟と共に暮らす幸せな日々でした。家族のためだけに走って来た牧村三枝子にとって、同居からわずか10年余りで父親が亡くなってしまった悲しみは、想像を絶するものだったはずです。

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牧村三枝子は「みちづれ」「友禅流し」などのヒット曲で有名!歌手活動復帰を支えた仲間と父親の遺品

牧村三枝子の「みちづれ」大ヒットの裏には渡哲也への忘れられない恩義!

牧村三枝子は、デビュー以降も数枚のレコードを発売しますが、なかなかヒット曲に恵まれずにいました。ところが、27歳の時に偶然聴いた渡哲也のシングル「みちづれ」が、大きく運命を変えることに。

「どうしても、この曲を歌いたい!」と強く願った牧村三枝子は、渡哲也が、当時の所属レーベル・ポリドール(現ユニバーサルミュージック)の先輩歌手だったこともあって、本人に直談判したのだといいます。

すると、渡哲也は、なんと自分のレコードを廃盤にしてまで、牧村三枝子に「みちづれ」を譲ってくれたのだそうです。1978年12月、牧村三枝子のカバー版「みちづれ」は、オリコン週間シングルチャート38週連続20位にチャートイン。100万枚を超える大ヒットとなりました。

1978年10月発売「夫婦きどり」、1980年10月発売「あなたの妻と呼ばれたい」と、立て続けにヒットを飛ばした牧村三枝子。「みちづれ」で1981年の紅白歌合戦へ初出場を決めると、以後4年連続で出場を果たしました。

1989年にも「友禅流し」というヒット曲が生まれ、牧村三枝子は、演歌歌手としての確たる地位を築いたかのように見えましたが、ここから鳴かず飛ばずの時代に突入することになりました。

牧村三枝子、現在は歌手活動復帰!絶望の淵から救った仲間の言葉と父親の遺品!

牧村三枝子は、2002年の病気発覚から約2年の闘病生活を経て、2004年に歌手活動を再開しました。牧村三枝子の病気は完治したわけではありませんが、復帰から2018年までに6枚のシングルを発表しています。

重度の肝硬変を患っていた当時は、死の恐怖を感じるどころか、「あと5年も生きなきゃいけないのか」とさえ思ったといいます。そんな牧村三枝子を救ったのは、小林幸子、山本譲二、細川たかし、北島三郎らが送った、1本のメッセージテープ。「負けちゃいけないよ、歌いたい時に歌えばいい」との言葉に、「もう一度仲間のところに戻りたい!」との思いを抱くようになります。

そんな時、牧村三枝子の元に父親の遺品が届きました。その中には、牧村三枝子の全リリース作品が、1曲につき何枚もあったといいます。それを見た牧村三枝子は、生きて父親のために歌うため、一切の酒を断ち、闘病への決意を固めたそうです。

その頃に「あと5年生きないとダメならやせ細った顔や身体を元に戻し、徹子の部屋に出ることを目標にした」とのこと。2016年7月27日に牧村三枝子は念願のテレビ朝日系「徹子の部屋」に出演し、目標を1つ達成しています。

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牧村三枝子の古風な性格がステキ!独身貫き歌い続ける姿に感動

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牧村三枝子は、演歌仲間や亡き父親の深い愛に支えられ、見事ステージに返り咲きました。牧村三枝子は、かなりの経歴を持つ演歌歌手であるにも関わらず、キャンペーンで歌う時には、ファンが共に口ずさんでくれるのが、至上の喜びなのだそうです。

古風なほどに真面目で、愛情深い牧村三枝子は、友人たちとは手紙のやりとりで、丁寧に気持ちを伝えあうともいいます。特に、絶望期から救ってくれた小林幸子とは、遊び心のある手紙交換を楽しんでいるのだそうです。

そんな牧村三枝子は、現在も独身です。その理由について、牧村三枝子は、「21歳の時に出会った渡哲也と石原裕次郎以外に、結婚したい相手が現れなかったから」とコメントしています。

2018年11月27日、「サンミュージック」グループの創立50周年記念式典が東京・港区の東京プリンスホテルで開催されました。牧村三枝子は「サンミュージック」に47年間所属しています。

まだ事務所がスタートしたばかりの頃は、所属タレントたちは故・相澤秀禎会長の自宅に居候し、共同生活を送っていたといいます。しかし牧村三枝子は「私は3日ぐらいしかいませんでした。人と一緒にいるの嫌なので。だから、今でも独り者です!」とコメントし、笑いを誘っていました。

牧村三枝子の近年の楽曲や活動は?

牧村三枝子は2014年10月22日に「黄水仙」をリリースしています。「黄水仙」は、少し軽い曲調が特徴的。戸惑いながらも、歌の師であった亡き作曲家・遠藤実の「詞を温かく包むように歌いなさい」との言葉を胸に、真心を込めて歌っているのが印象的な曲です。

その後、3年10カ月ぶりの2018年8月22日に「歌一輪」をリリース。「歌一輪」は色恋の話からは離れた明るい調子の楽曲となっています。2019年1月25日付の西日本新聞夕刊に掲載されたインタビューにおいて、牧村三枝子は「歌一輪」について語っています。

最初にスタッフから提示された新曲についての情報は「歌一輪」という題名のみだったそう。牧村三枝子がリクエストしたのは「ふるさとなど、素朴な感じを入れてほしい」ということだけだったそうです。

そして出来上がった歌詞の「座右の銘と父親の 言葉はいつも胸の中」といった歌詞を読み、牧村三枝子は驚きながらも家族を思い、涙が出てきたとか。「私がただ幸せだけできていたら、この歌は歌えなかったかもしれませんね」と言葉を紡いでいます。これからも牧村三枝子にはその美しい声で、皆の心に響く歌を歌い続けて欲しいものですね。

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