2023年1月18日 更新
いかりや長介の死因は原発不明頚部リンパ節がん!仕事復帰の裏にあった事実
◆出身:東京都
◆身長:175cm
◆血液型:A型
◆所属事務所:イザワオフィス
いかりや長介、死因は原発不明頚部リンパ節がんだった
いかりや長介は、ザ・ドリフターズのリーダーで名俳優。惜しまれながら、2004年3月20日に他界しました。その死因は、原発不明頚部リンパ節がんという病でした。
2003年5月にドラマ「高原へいらっしゃい」を降板して入院した当初、いかりや長介自身は頚部にわずかなしこりを感じるだけで、痛みなどの目立った自覚症状はなかったといいます。いかりや長介は、最初の入院で放射線治療などを行い、経過良好ということで7月には仕事復帰していました。しかし、後に長男が明かしたところによると、実は復帰時点で家族にだけ「余命はもって8ヵ月」と告げられていたのです。
いかりや長介は俳優としても活躍!
ザ・ドリフターズのリーダーだったいかりや長介。1969年10月から16年にわたって放送された、ドリフの代名詞とも言えるバラエティー番組「8時だョ!全員集合」が1985年に終了すると、俳優としての活動を始めました。1987年にはNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」に、1990年には黒澤明の新作映画「夢」に出演し、注目を集めました。
俳優・いかりや長介の魅力を幅広い世代に浸透させたのが、1997年1月から出演したドラマ「踊る大捜査線」です。いかりや長介は同作品で和久平八郎役を務め、「8時だョ!全員集合」を見たことがない若いファンからも人気を獲得しました。さらに1999年には、「踊る大捜査線 THE MOVIE」で、「第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞」を受賞しています。
いかりや長介率いるドリフのギャラ事情がすごかった?高木ブーが明かしたリーダーの姿
いかりや長介率いるドリフターズをスターダムに押し上げた「8時だョ!全員集合」ギャラ事情は?
「8時だョ!全員集合」は、最高視聴率50.5%を記録したほどの国民的番組。番組の全盛期、ザ・ドリフターズのメンバーである加藤茶の年収は、およそ14億円だったそう。これは同番組が放送されていた1969年~1985年までの間のことですから、時価換算すると現在の42億円近い価値があったと思われます。また、1974年からドリフターズ入りした志村けんは、24歳にしていきなり月収50万円。当時の大卒初任給が6万円程度だった事を考えると、笑いが止まらなかったはずです。
番組人気に伴って、1回1500万円の値がついていたドリフターズ。しかし営業が増えても、メンバーのギャラは大きく動きませんでした。志村けんによると、渡辺プロ時代には均等配分されていたギャラが、「ドリフターズ事務所」が設立された途端に「6:1:1:1:1」になったといいます。当然6は、いかりや長介。実際の総資産や年収額は不明ですが、当時の加藤茶を超えていたとしたら、恐ろしい金額であることは間違いありません。
いかりや長介という男はどんなリーダーだったのか?ドリフターズ高木ブーが明かした
ザ・ドリフターズのリーダーとして、個性あふれる5人のメンバーをまとめていたいかりや長介。メンバーの1人である高木ブーは、いかりや長介の死後、いかりや長介についてのインタビューで、「長さんはひと言で言えば厳しかった」と振り返っています。
ドリフの最年長であるいかりや長介と、最年少の志村けんの年齢差は約20歳。いかりや長介は、ワンマン的リーダーシップに「年齢差」をうまく使っていたと言います。「8時だョ!全員集合」の生放送が行われていたのは、土曜の夜。リハーサルは木曜から行われていました。いかりや長介は、全体の流れや構成を決めていく中で、メンバーを怒鳴ることも少なくなかったそう。しかし高木ブーは、「演出家としての才能はすごかった」と賞賛しています。
リーダーであるいかりや長介が、4人のメンバーのキャラクターや性格を理解していたからこそ、「8時だョ!全員集合」は16年もの長い間、放送を続けることができたのではないでしょうか。
いかりや長介が遺した財産!加藤茶や志村けん、小泉孝太郎もそれを受け継いだ!
いかりや長介への想いを志村けんが語っていた
ザ・ドリフターズの最年少だった志村けんが2020年3月29日に、新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなりました。70歳でした。師匠と弟子という関係でもある、いかりや長介と志村けん。2人の間には不仲説も流れていましたが、志村けんは2019年4月5日に放送された「中居正広の金曜日のスマイルたちへSP」で、「ドリフターズは家族みたいなもの」と語っています。
番組にはいかりや長介の長男が出演し、いかりや長介が亡くなる3週間前、誰にも言わずに志村けんの舞台を観に行っていたことを明かしました。また、病床で意識が遠のく中、走り書いたメモにあった言葉が「加藤がえらい、志村がえらい」であったことも伝えたのでした。志村けんは初めて耳にするエピソードに、「今から見ると、笑いに一生懸命だったとわかる。その後を継いで良かった。僕の師匠としては間違いなかった」とコメント。2人をはじめとするザ・ドリフターズのメンバーは、本人たちにしかわからない、強い絆で結ばれていたのが伝わってきます。笑いを追求するあまりピリピリしていた過去も、空の上で和やかに語り合われているかもしれません。
俳優・小泉孝太郎の理想はいかりや長介
いかりや長介が影響を与えたのは、ザ・ドリフターズのメンバーだけではありません。俳優の小泉孝太郎は、いかりや長介を「理想の姿」だと語っています。小泉孝太郎は事務所入り直後から、弟子としていかりや長介に接しました。
いかりや長介とは、車移動、食事、飲みに行くのも一緒。いかりや長介は、台本の見方や、スタジオのカメラの呼び方まで、丁寧に優しく教えてくれたそうです。小泉孝太郎は、いかりや長介のように、年齢を重ねて「円熟」と呼ばれる役者に近づくべく、研鑽を積んできたと言います。家族のような近さゆえ、大きな声で語ることはなくとも、こうした想いはおそらくドリフターズのメンバーの胸にもあったはずです。
いかりや長介 最期の仕事は「ドリフ」だった
奇しくもいかりや長介最期の仕事は、2003年12月に放送された「40年だよ!ドリフ大爆笑スペシャル」となりました。この時、いかりや長介は、いつ倒れてもおかしくない状態だったそうです。それでも、40年間妥協無く懸命に走り続けた集大成として、力を振り絞ったいかりや長介。
このようないかりや長介のストイックな姿勢が、加藤茶や志村けんという大スターを生んだのでしょう。何においてもプロフェッショナルだったいかりや長介の精神力は、実質的な資産より、かけがえのない財産をこの世に遺したのではないでしょうか。
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