斎藤道三は戦国時代に生きた武将!娘は織田信長の正室・濃姫

戦国時代に名を馳せた武将のひとり。道三流斎藤氏の初代当主、美濃の戦国大名・斎藤道三(さいとうどうさん)。僧侶から油商人となった後に武士となり、戦国大名にまで上り詰めた逸材です。

その成り上がりにはストーリー性が感じられ、北条早雲らと匹敵するほどの知名度なのだとか。北条早雲(ほうじょうそううん)とは別名伊勢宗瑞(いせそうずい)のことで、戦国時代初期にあたる室町時代の中期から後期にかけて活躍した武将です。

美濃の国盗りを成し遂げたのは斎藤道三ひとりの手柄と称賛されてきましたが、近年の「六角承禎条書写(ろっかくじょうていじょうしょしゃ)」という古文書の研究により、父親とともに完遂した親子2代の功績ではないかという説も発見されたようです。


斎藤道三のプロフィール
◆生年月日:1494年
◆死没:1556年5月28日
◆生地:京都府
◆墓所:常在寺(岐阜県岐阜市)

斎藤道三の娘は織田信長の正室・濃姫!

1973年に放送されたNHK大河ドラマ「国盗り物語」の主人公となった斎藤道三は、1494年に現在の京都南部にあたる山城で、松波基宗(まつなみもとむね)の子供として生を受けました。

子供の頃から寺で修業を積み、11歳で僧侶になった斎藤道三でしたが、その後油問屋の娘と結婚したのを機に俗人に戻り、油商人となります。素晴らしい商才を発揮して商売を成功させた斎藤道三は油を売った武士に商才を認められ、その力を修行に注げば良い武士になると言われたのをきっかけに武芸を極めます。

武士になろうと心に決めた斎藤道三は、当時の美濃では有力者であった長井長弘(ながいながひろ)に仕官。武士としても他とは一線を画す才能を見せ、土岐頼芸(ときよりあき)の家臣となりました。

そんな斎藤道三の娘は、織田信長の正室・濃姫。よって斎藤道三は、織田信長の舅にあたります。織田信長・濃姫の名が有名すぎるために2人の陰に隠れがちな斎藤道三ですが、彼がいなければ2人の結婚も実現しませんでした。

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斎藤道三は明智光秀の親戚だった!?

織田信長や濃姫の名が出てくる歴史物語を語る際、外せない人物として語られる明智光秀。2020年放送のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公としてその生涯が描かれることになった光秀は、斎藤道三と親類関係にありました。

斎藤道三は明智光秀の父親である明智光綱の妹、小見の方と結婚しています。明智光秀の叔母を妻にしたことで、斎藤道三と明智光秀は親戚になったというわけです。

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NHK大河「麒麟がくる」で斎藤道三を演じるのは?

戦国大名として活躍した武将・斎藤道三は、数々の名言を遺しました。そのうち最も有名なのは、信長の生涯を書いた「信長公記(しんちょうこうき)」に記されているこの一節でしょう。

「されば無念なることに候、山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候」

娘婿である織田信長と初顔合わせをした帰り道、信長を「たわけ」と呼んだ家臣に対し、斎藤道三はこう答えたといいます。

「山城」というのは斎藤道三自身のこと、「門外に馬を繋ぐ」とは、家臣になることを指します。つまり、自分の息子たちが信長の家臣になることは間違いないだろうと言ったのです。この時、19歳だった織田信長が天下を獲るほど武将としての才覚に長けていることを一度の対面で見抜いた斎藤道三は、先見の明があったといえるでしょう。

そんな斎藤道三は1556年、長良川の戦いにおいて息子である斎藤義龍に討ち取られ、63歳で命を落とします。一代で財を成し、現在の岐阜県南部にあたる美濃国を治め、町の基礎を造った斎藤道三。その生涯はNHK大河ドラマ「国盗り物語」をはじめ、数々の小説やドラマで描かれています。

2020年に長谷川博己主演で放送される大河ドラマ「麒麟がくる」も、同作の主人公となる明智光秀が仕えた織田信長の正室・濃姫の父親である斎藤道三はもちろん登場します。同作の主要キャストともなる斎藤道三を演じるのは、本木雅弘。美濃を手中に収めるため少々手荒な手段も使い、美濃の蝮(まむし)と呼ばれた斎藤道三に演技力に定評のある本木雅弘が扮するとなれば、放送開始がますます楽しみですね。

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