フィンセント・ファン・ゴッホはなぜ耳を切ったのか?「星月夜」「ひまわり」等の作品で有名な印象派

2022年10月11日 更新

「ジャガイモを食べる人々」「星月夜」「カラスのいる麦畑」「糸杉と星の見える道」など、数々の名画を遺したフィンセント・ファン・ゴッホ。「ひまわり」「自画像」など代表作と言われる作品は、フィンセント・ファン・ゴッホが描いたものだと知らなくとも、誰もが一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

自分の耳を切り落とし、37歳の若さで自ら命を絶ったフィンセント・ファン・ゴッホの劇的な生涯は、映画をはじめとする数々の映像作品で描かれています。


フィンセント・ファン・ゴッホのプロフィール
◆生年月日:1853年3月30日
◆死没:1890年7月29日
◆出身:オランダ・北ブラバント州
◆代表作:「ひまわり」「星月夜」「糸杉と星の見える道」「自画像」等
◆ポスト印象派

ゴッホは画家を目指していなかった!?

オランダで牧師の子として生まれたフィンセント・ファン・ゴッホ。元々彼が描いていた夢は画家ではなく、伝道師になって病気や貧しさに苦しむ人を救うことでした。その思いを叶えるべく、王立大学の神学部を受験するためアムステルダムで勉強に励んだフィンセント・ファン・ゴッホ。しかし、広い見識を必要とする聖職者を育てる神学部の受験科目は語学、地理、歴史、数学など多岐に及び、彼はあまりの厳しさに挙動がおかしくなるなど追い詰められた挙句、受験を断念します。

それでも諦めず聖職者になる道を模索したフィンセント・ファン・ゴッホはベルギーの伝道師養成学校で学ぶ機会を得て、伝道師の仮免許を交付されるところまで行きつきます。しかし、生活に困窮する人々が暮らす炭鉱の町で苦しさの中にこそ神の癒しがあると聖書の教えを説いたフィンセント・ファン・ゴッホは周囲の反感を買い、伝道師の仮免許も無効となって夢を閉ざされます。

伝道師になる道を諦めざるを得なくなったフィンセント・ファン・ゴッホは職にも就かず、お金も持たず放浪の旅に出るなど失意の日々を過ごした後、以前から才能を垣間見せていた絵の道へ本格的に進もうと決意。弟のテオドルス・ファン・ゴッホに支援されながら制作を続けました。

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ゴッホの耳切り事件の真相とは?

その後、オランダの各地を転々としながら多くの作品を描いたフィンセント・ファン・ゴッホは、1886年に弟のテオドルス・ファン・ゴッホが暮らすパリへ渡ります。そして兄弟で2年ほど暮らした後に南フランスへ移り、パリで知り合ったポール・ゴーギャンとの共同生活を始めます。

フィンセント・ファン・ゴッホを語るうえであまりに有名な耳切り事件は、2人が生活を共にし、作品にも描いた黄色い家で起こりました。ポール・ゴーギャンと制作方針などで意見が合わず、意思疎通の難しさに悩んだフィンセント・ファン・ゴッホは共同生活開始から2ヶ月後、自らカミソリで切り落とした耳を持って町へ出るという騒ぎを起こして病院へ収容され、ポール・ゴーギャンとの生活は終わりを迎えます。

この事件について、フィンセント・ファン・ゴッホは「何も覚えていない」として詳しく語っていません。常軌を逸する行動ではあるものの、当時本人が語った症状や行動などから精神の病によるものとするよりも、てんかんや統合失調症、メニエール病などが有力な説として挙げられています。しかし、医学的見地から考えられる原因は100を超えるとも言われており、断定するのは難しいようです。

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ゴッホの遺した世界的名作「星月夜」

「アルルの跳ね橋」「ひまわり」「夜のカフェテラス」「黄色い家」「糸杉と星の見える道」、そして37点も描かれた「自画像」など、フィンセント・ファン・ゴッホが遺した名作のほとんどは、ポール・ゴーギャンと共同生活をした南フランスのアルルで過ごした1888年以降、1890年に拳銃で自らの命を絶つまでの2年間に描かれたものです。

この2年間で制作された作品の中で特に有名な代表作とされるのが、「星月夜」です。耳切り事件でアルルの公立精神病院に入院していたフィンセント・ファン・ゴッホは、1889年5月に牧師の勧めで民間の療養所へ移っています。「星月夜」は、そこから見える山並みや夜空に浮かぶ月や星、雲を描いた作品で、西洋美術史に刻まれる名画となりました。

「星月夜」は、ニューヨーク市マンタッタンにあるニューヨーク近代美術館(The Museum of Modern Art)に所蔵されています。MOMAの愛称で親しまれる同館は2014年からリニューアル工事が始まり、大詰めとなる2019年6月から休館していましたが、10月21日に新たな装いでリニューアルオープンしたばかり。「星月夜」は同館の目玉作品として、常設展となっている5階に展示されています。

フィンセント・ファン・ゴッホは世を去る直前まで、弟のテオドルス・ファン・ゴッホと頻繁に手紙のやりとりをしており、当時の暮らしぶりや各作品が描かれた時期などを知る重要な資料となっています。彼が書いたものと確認されている手紙は弟以外の家族や知人に宛てたものも含めると800通を超え、その内容は弟テオドルス・ファン・ゴッホの長男であるフィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホが2年をかけて編纂し、各国で出版されています。

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ゴッホは日本美術ファンだった?浮世絵の模写や収集も

フィンセント・ファン・ゴッホは、日本の浮世絵にも強い関心を持っていたことが知られています。1887年に描いた肖像画「タンギー爺さん」の背景に浮世絵を取り入れている他、浮世絵師・歌川広重の「名所江戸百景」「亀戸梅屋舗」「大はしあたけの夕立」など、特に気に入った作品の模写も遺しています。

模写に加え、600点を超えるとされる浮世絵をコレクションしていたというフィンセント・ファン・ゴッホ。そのほとんどは、オランダのアムステルダムで国立美術館として運営されているファン・ゴッホ美術館に収蔵、展示されています。また、同館の公式サイトでは、先述したフィンセント・ファン・ゴッホの手紙も無料で閲覧できます。

アメリカの俳優カーク・ダグラス主演で1956年9月に公開された映画で「炎の人」と称されたフィンセント・ファン・ゴッホ。狂気といわれる行動と情熱的な制作活動が折り重なる中で生涯を終えた彼は、キャンバスにどんな思いをぶつけていたのでしょうか。あらためて思いを馳せながら作品を見ると、これまでとは違った何かを感じるかもしれません。

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